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蘇我氏はどこからやってきた?飛鳥の権力者・蘇我氏のルーツを探る


 
 蘇我氏についての私たちの知識は貧弱です。日本書紀の乙己の変の記憶があるだけです。この時期の唐や三韓との外交関係、他の蘇我家と本宗家の関係、在地豪族との関係、朝廷をめぐる権力関係などについての何の知識もありません。また、乙己の変後の本宗家の資産の帰趨もあきらかではありません。

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1. 蘇我本宗家4代の事績をみる

(1) 稲目

 継体天皇の皇子の欽明が大王になると蘇我稲目は大臣になり、2人の娘(小姉君と堅塩媛)を大王の妃にして関係を強めます。継体天皇との間によほどの信頼関係がない限りはあり得ないことです。

 

(2) 馬子

 蝦夷の子の馬子も大臣を継承し、欽明天皇の後の敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇の時代の政治を担います。仏教の受容をめぐり大連の物部氏と対立し、物部の本宗家を倒します。敏達天皇の死後、用明天皇が即位しますが短い在位期間で亡くなり、馬子の甥にあたる崇峻天皇(用明天皇の妃のきょうだい)が即位します。しかし、崇峻天皇が馬子の独裁を憎んでいると知り暗殺させます。その後は敏達天皇の后妃(炊屋姫)を大王とし聖徳太子を摂政とする体制を作ります。中央集権的な国体にするため官僚の執務心得の作成や国史の編纂を太子と共に進めたとされます。

 

(3) 蝦夷

 推古天皇の治世後半と皇極天皇の治世に大臣を務めます。推古天皇の崩御後は敏達天皇の孫の田村皇子を即位(舒明天皇)させます。推古の遺志では次期大王は田村皇子だとし、山背大兄王を大王に推す意見を退けています。また、舒明天皇の死後は舒明天皇の后妃(皇極)を大王にしました。

 

(4) 入鹿

 父蝦夷の生存中に大臣の地位を継承します。大王には無断だったようです。山背大兄王を襲って上宮王家一族を自殺に追いこんだ張本人とされます。唐の律令制を帰国した留学僧から学んでいたようですが、知力もあり父の蝦夷より積極的な性格だったようです。

 

(5) 4代の事績の感想

 蘇我氏は稲目のときに大きな権力をもちます。次の馬子も権力を振るったようですが、蝦夷の代になると他の勢力(百済か新羅か)にやや遠慮した感じがします。蝦夷個人の性格かも知れませんが、息子の入鹿は歯がゆく思ったかも知れません。

 

2. 蘇我氏の渡来のいきさつ

 イラン東部のサカスタン王国のサカ族にミトラ教の精神を受け継ぎ弥勒信仰を捧持する支族がいました。その支族が蘇我氏のルーツのようです。その信仰ゆえにササン朝ペルシャと同化できず、サカスタンを追われてアフガニスタン北東部から匈奴の支配地域に入ったようです。なお、サカ族とは遊牧民のスキタイに属し、騎馬民族の伝統をもっています。太陽と月と水が彼らのシンボリズムです。

 移動の過程で高車族に接触します。高車はバイカル湖周辺を故地とするトルコ系遊牧民で、ジュンガリア高原を支配していました。高車の庇護のもと、バイカル湖南端を通り沿海州に至り、日本海を渡って越の国(中国名は扶桑国)に落ち着きます。越の国は東北の地にあり西域の遊牧民系の人達がいたようです。一族は故地に似た地形(山と湖)の常陸鹿島の地で力を蓄えた後、河内から飛鳥の地に進出したと考えられます。

 

3. 蘇我氏の特徴

 ユーラシア大陸の遊牧民の特徴のほか、現在のイランの地に栄えたペルシャの文化をあわせもっているようです。

 

(1) 双分制

 蘇我氏はスキタイの後裔です。スキタイの双分制社会の伝統を受け継いでいます。祭祀を担う王(天皇)と政治を担う王とが並立します。蘇我氏は双分制を日本にも取り込もうとしたのでしょう。祭祀は天皇に任せ。蘇我氏は政治経済を担う考えだったと思われます。しかし他の豪族は双分制を理解していたとは思われません。政治経済における蘇我氏の活動を天皇の権力を奪う行為と思ったと思います。

 

(2) 飛鳥

アスカは、ア(聖なる)スカと分けられことから蘇我氏の地と考えられます。また、蘇我氏は白鳥や烏(からす)などの鳥のシンボルをもちます。通過してきたバイカル湖付近の白鳥が関係していたかもしれません。飛と鳥を合わせて飛鳥(あすか)と読ませたのでしょう。アスカと飛鳥は本来は何の関係もないのですが、蘇我氏の存在によりはじめて両者が結びつくのです。

 

(3) 聖方位配置

(a) ペルセポリス

 イランのペルセポリス宮殿は聖方位の配置です。聖方位とは建物の配置軸が南北軸から20度西に傾いていることを言います。聖方位配置の南端には王の座があります。またペルセポリスでは、新年には聖方位軸の延長上(東南方向)にシリウスが見えるとのことです。この星は連星として知られますが、スキタイの双分制とも関係があるのでしょう。

(b) 飛鳥にある蘇我と厩戸皇子ゆかりの建物

 飛鳥の地は北に向かって開けた地で、その南端に蘇我氏の嶋宮がありました。腹心の司馬氏の坂田寺は近くの東南にあり、建物は聖方位の配置でした。ペルセポリスの配置に似せたのでしょうか。蘇我氏と馬戸皇子に関連する建物以外では聖方位の配置はないようです。蘇我氏と馬戸皇子ゆかりの建物と敷地で、部分的な聖方位とか完全な聖方位ではないものの南北の軸線から西にすこしだけ傾けた軸線の建物が多いようです。既存の豪族への遠慮があったのでしょうか。

 

(4) 継体天皇と蘇我稲目

 蘇我稲目を抜擢した継体天皇も草原ルートから渡来した遊牧民でしょう。ただし越の国(扶桑国)ではなく近江を本拠地としたようです。両者の出会いについては今後の研究課題です。

 

4. まとめ

 蘇我氏の出自を百済とする説、新羅とする説、在地勢力とする説などがあります。本稿では遊牧民族のスキタイの系統でサカスタンあたりにいた種族を出自とする説を紹介しました。

 蘇我氏が目指した社会は弥勒信仰・阿弥陀信仰を中心にし、しかも中央集権的な社会のようです。双分制をとり、宗教的大王と政治経済を担う大王とが責任を分担し、かつ相互にチェックします。しかし蘇我氏より古い豪族やその支族が多数いるため、そして三韓の動乱の影響もあり、目指す社会を実現途上で入鹿が殺害されてしまいます。入鹿の存在が不都合な勢力がいたのでしょう。

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カテゴリ: その他

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