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獅子舞の2種類の系統:風流踊系獅子舞の伝説

獅子舞

「風流踊(ふりゅうおどり)」を起源とする獅子舞には北関東を中心に文挾(ふばさみ)流、関白流、稲荷流といったいくつかの流派があります。
それぞれには起源にまつわる独自の伝説があるようですが、その真偽はともかくとしてご紹介してみることにしましょう。

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下野に平和をもたらした武人の死を起源とした獅子舞伝説

「関白流獅子舞」は、栃木県で広く行われている風流踊系の三匹獅子舞ですが、その始祖とされるのが宇都宮市の関白山神社で舞われる「天下一関白神獅子舞」。その起源伝説はこのようなものです。

平安時代には、北関東の地は盗賊などが跋扈し大変治安が悪かったといいます。下野国(栃木県)には蔵宗と蔵安という兄弟が千人もの配下のならず者を率いて、悪さの限りをつくしていました。

平安時代半ばの915年に、上総介や武蔵守など坂東の国司を歴任した藤原利仁が下野に入り、高座山の麓を本拠地にしていた蔵宗・蔵安兄弟の討伐を行います。6月というのに辺りは大雪に見舞われるなか、藤原利仁の軍は油断していた蔵宗・蔵安兄弟の軍を打破り兄弟の首を刎ねました。

しかしその後に藤原利仁は急の病に倒れ、10月には亡くなってしまいます。葬式をあげようとすると、空はにわかにかき曇り辺り一帯が闇夜のようになってしまいました。そこで3頭の獅子による獅子舞を舞わせたところ天候が戻り、無事に葬式が行えたということです。このときの獅子舞が、現在にも受け継がれる関白流の獅子舞となりました。

 

 

インドからやって来た獅子の伝説

藤原利仁は915年に鎮守府将軍となった平安時代中期の代表的な武人で、今昔物語の「芋粥」の話など多くの説話や伝承が残っています。しかし獅子舞の方は室町時代の風流踊を源流としたものですから、この伝承は後世の創作ではないかと考えられていますが、はたしてどうでしょうか。

一方で群馬県甘楽郡の旧秋畑村の獅子舞を源流とする「稲荷流獅子舞」には、獅子舞がインドからやって来たという不思議な伝承があります。それによると、獅子舞の起源は先ほどの藤原利仁の伝承よりも更に古く、飛鳥時代末期の708年だということですが、その伝承はこんなお話です。

 

 

土地のお稲荷さんと獅子舞の関係

獅子つまりライオンは、インドでは人間を食べて生きていました。この獅子がインドで人間が少なくなってきたので、日本に行こうとします。これを知った日本の神が、神使(しんし)の狐を天竺(インド)の権田河原というところに遣わして「大和では人間を食べる替わりに悪魔を退治すれば、食べ物を与えられて魔を祓う神として崇められる」と諭しました。

それにより、インドの獅子は狐を先導役に日本に来たのだそうです。そこからこの獅子舞では、獅子をインドから日本に導いた狐が先導役として演じられるので、稲荷流とされたのだということです。

この地にある稲含山の稲含神社の祭神は「豊稲田姫」とされ、この女神は同じくインドからやって来て日本に稲作や養蚕を伝えたということで、豊稲田姫が日本に来る際に稲の種子を口に含んで隠して持って来たことから、稲含山という名前になったのだとか。

豊稲田姫は古事記・日本書紀には登場しない神様ですが、共に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)という“お稲荷さん”で有名な狐を神使とする穀物神が祀られているので、獅子を諭すために狐をインドに派遣したのは宇迦之御魂神かも知れません。また、平安時代や鎌倉時代の文献にある本来の稲荷神は女神であるとされていますから、東南アジアから中国大陸南部を経て日本に伝播したと考えられる古代の稲作とともに獅子の伝承もやって来たのでしょうか。

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