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真実はいずこ?諸説あるアレキサンダー大王の死因とは

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紀元前に活躍し、今なおその名前が話題にあがるという古代ギリシアの伝説の大英雄、アレクサンドロス3世ことアレキサンダー大王は、若干20歳で父親であるフィリッポス2世から王位を継承し、マケドニア王国の発展に大いに貢献しています。

しかし、王位継承からわずか10年余り、わずか32歳の若さで亡くなってしまいます。アレクサンダー大王の死因には諸説あり、未だに明確には判明していません。

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王位継承の理由は父親の暗殺

そもそもアレキサンダー大王が20歳という年齢で王位を継承した理由は、父親であるピリッポス2世の暗殺による死でした。ピリッポス2世は、アテネなどのポリスと比較すると弱小国とみられていたマケドニア王国を強大な帝国に育てましたが、絶頂期の紀元前336年、祝宴の席において、側近のパウサニアスという人物に暗殺された、と伝えられています。

この暗殺劇には、既に離婚していた元妻のオリュンピアスが深くかかわっていた、との説が伝えられていますが、こちらも真相は解明されていません。しかし、とにかくこの暗殺があって、アレキサンダー大王は「伝説の英雄」としてのキャリアを出発させたのです。

 

ペルシア遠征の野望を引き継いで

アレキサンダー大王は、父であるピリッポス2世の死の2年後、紀元前334年には、父の宿願であったペルシア遠征を開始しています。そして翌年の紀元前333年には、イッソスの戦いにおいて、ついにペルシア軍を撃破します。

そのうえペルシア制圧では、血なまぐさい粛清や戦勝国の圧政、といった横暴な政策を取ることなく、ペルシアの貴族の地位を保証したり、行政組織をそのまま残すといったアプローチで、平和的かつ混乱なしにペルシアを治めることに成功しています。

続いて戦前にはペルシアの配下にあったエジプトでは、解放者として歓迎されつつ占領に成功し、ますます勢力を拡大していきました。

 

死因は諸説存在している

その後、アレキサンダー大王の理想的な勢力拡大は永遠に続くかに見えましたが、ペルシアやエジプトの制圧から10年、紀元前323年の6月に、アレキサンダー大王も亡くなってしまいます。なぜ彼は亡くなってしまったのか、死因はなんであったのかは、未だに判明していません。

アレキサンダー大王の死因は、政策に不満を持つ者の陰謀説、病死説、毒草を誤って口にした説、戦場での負傷がもとで亡くなったという説、蜂に刺された説、川の水に含まれていた細菌による死説等、多くの説が伝えられています。

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カテゴリ: その他

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