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中国から来た河童と日本の河童(2)江戸時代後期にイメージが定着

カッパ

 

熊本県の八代市には、河童が大陸から渡って来たということを記した石碑があります。
これは「河童渡来之碑」というもので、八代城跡の南、前川橋のたもとに建てられています。
その伝承によると、仁徳天皇の時代(4世紀とされる)に「九千坊」という河童が9,000匹の配下の河童を引き連れ大陸から渡って来て、八代の球磨川を棲みかとしたといいます。

 
やって来た河童たちは、いたずらや悪さを繰り返したあげくに捕まり、この渡来之碑の石がすり減るまで悪事はしないと誓ったのだそうです。
大陸からやって来た渡来人にまつわる話という説もあるようですが、いずれにしろ河童が大陸から渡って来たという伝承が古くからあったということでしょうか。

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現在の河童のイメージに影響を与えた?水虎

中国の水辺や水中に棲む妖怪に、「水虎(すいこ)」というものがあります。これは湖北省の川にいたそうで、背丈は幼児のように小さいのですが、身体は硬いウロコに被われ、膝頭が虎のツメに似ていて、身体を水中に沈めてその膝頭を水上に出しているのだとか。
おとなしい妖怪ですが、人間の子供がいたずらをすると噛みつき、また生け捕りにして鼻をつまむと使役できると言われています。

 
この水虎が日本に伝わって来て、河童によく似た妖怪または河童の一種ということになりました。身体は河童よりも大きく、人間を水中に引込んで生き血を吸ったり生命を奪うなど、その性質も獰猛になり河童の親分格であるという説もあります。

 
江戸時代後期に妖怪画を多く描いた鳥山石燕の「画図百鬼夜行」には、水辺の砂浜で甲羅を曝す(風にあてる)と記されていて、甲羅を背負っていることがわかります。また水虎のウロコは「穿山甲(せんざんこう)」のようだと解説されていますが、センザンコウとはアルマジロに似た、松ぼっくりのような硬いウロコに被われた動物のことです。

 

 

河童は、猿猴=サルから水虎のイメージへ

昌平坂学問所の儒学者であった古賀侗庵(こがとうあん)という人が、江戸時代後期に「水虎考略」(1836年)という本をまとめています。
この著作はまさに河童の研究書で、江戸時代に盛んになった河童研究の集大成とも言えるものです。昌平坂学問所は幕府直轄の大学といったところですから、当時の一流の学者が著した河童研究の学術書と言えます。

 
古賀侗庵は弟子の幕府の役人たちを通じて、全国各地で水虎=河童に遭遇した人から聞き取った情報を集め考証を行いました。またこの本には、著名な本草学者(博物学者)である栗本丹州が、目撃されたり捕らえられた水虎=河童の姿を描いて加えています。

 

ようやく固まった河童のイメージ像

それによると例えば、享和元年(1801年)に水戸藩の東浜で網にかかったとされる河童は、身長三尺五寸(約1m)体重十二貫目(約45kg)、胸が隆起して猪首で背が曲がっていると記されています。
そしてスケッチされたその姿は、背中に甲羅、お皿を載せたおかっぱ頭で口が尖っていて手足には水かきがあるという、まさに一般的に河童のイメージとされる姿でした。

 
イエズス会が1603年に発行した「日葡辞書(にちほじしょ)」や江戸時代中頃の「和漢三才図絵」に記述された河童のサルに似たイメージから、時代は下って江戸時代の後期になると、河童は現在にも描かれるような姿になっていることがわかります。
それは、中国から伝わった水虎の姿が合わさっていき、日本の河童のイメージがようやく成立していったということでしょうか。

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