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悪逆説は本当か?謎が残る蘇我氏の飛鳥、正確な情報が皆無の聖徳太子

古代文明

 

飛鳥は蘇我氏が熱い思いで築いた王都と感じます。
日本書記では大王に成り代わろうとした悪逆の人のように描かれていますが本当とは思えません。
真実を見抜く目を持たねばなりません。

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1. 名前にまつわる考察

飛鳥と書いて“あすか”と読みます。
古代史に興味をもつ人なら、“白鳥”のイメージからバイカル湖やヤマトタケルの最期を、“鳥”から騎馬民族を連想するのではないでしょうか。
ちなみに、蛇からは農耕民族を連想するようです。

 
蘇我氏の“蘇我”は“我蘇り(われよみがえり)”と読めます。なにやら作為的な印象を受けてしまいます。蘇りがキリストを連想させるからです。

 
厩戸皇子も“うまやどのみこ”と読めます。“厩”に作為を感じます。厩で生まれたキリストを連想させるからです。
このようなキリストを連想させる名前を誰がつけたのでしょう。

 

 

2 蘇我氏の謎

(1) 蘇我氏はスキタイ系統の部族に属し、ユーラシア大陸の草原ルートを通って中国東北部に至り、そこから東北地方へ渡海し、鹿島地方で力を蓄えて飛鳥に進出したと言われます。
蘇我氏の祖は製鉄技術をもつヒッタイト人だとする説もあります。

 
(2) 百済の上級貴族である木氏を祖とする渡来人だとする説もありますが、百済以前の経歴が説明されていません。
百済は単なる中継地にすぎないと考える人々には、百済に先立つ時代の蘇我氏の姿を説明しなければなりません。

 
(3) 蘇我氏は稲目の代に頭角をあらわします。
大臣の地位を得たほか、二人の娘を欽明大王の妃にしました。
欽明大王側に稲目の娘を娶る理由があったか、稲目側に娘を差し出す理由があったか、あるいは両者それぞれに利益があったかでしょう。
欽明大王は百済あるいは伽耶からの渡来人という説もあります。
もしそうなら、元は渡来氏族であっても既に強い地盤をもつ蘇我氏との結びつきで足もとを固める必要があったかも知れません。

 
(4) 蘇我氏が渡来人をまとめる職にあれば、中国、高句麗、新羅、百済などの出身の違いを超えて、渡来人と相応の関係をもったでしょうから、海外の事情に通じていたことでしょう。

 
(5) 飛鳥は大王家ではなく蘇我氏が建設した防備を備えた王都だったようです。
谷口雅一氏によれば、百済の首都の扶余を模したようです。

 
(6) 当時は大王に権力が集中し、多数の官僚がその下で働いていたわけではありません。
祭祀は大王家が担っていたものの、政治の実権は各豪族が握っていました。
大王家も豪族の一人であり、当時の蘇我氏の実力は豪族の中で抜きん出ていたのでしょう。

 
(7) 中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿の殺害の事実はなく、腹心とも言える事業家の秦河勝による殺害とする説があります。
この頃、秦河勝は播磨に避難しています。
事件の首謀者は鎌足らです。

 

 

3 聖徳太子の謎

納得のいく太子の姿はなかなか明らかにならないようです。
真実を求める研究を妨げる勢力でもいるのでしょうか。

 
(1) 定説では、聖徳太子は用明天皇と穴穂部間人(はしひと)皇女との間に生まれた子とされます。
祖母は蘇我稲目の娘(小姉君)で欽明天皇の妃です。祖母のきょうだいが蘇我馬子です。

 
(2) 小石房子氏は聖徳太子を突厥の達頭(たるどう)だとします。
高句麗を経由した渡来です。突厥出身なら大陸情勢に詳しいでしょうが、渡来して間もないため経済的にも人脈面でも基盤が弱く、政治的に存分の働きはできなかったでしょう。

 
(3) 飛鳥にある秦王国のアメノタリシホコの長男の長男(上宮聖徳法王)が聖徳太子のモデルだとする説もあります。
秦氏(乳母の出身)が支援する弟との勢力争いに敗れて自殺します。秦氏の利益に反する政策をしようとして除かれたのかもしれません。

 
なお、隋に遣使したのは祖父のアメノタリシホコのようです。

 
上宮聖徳法王をモデルにして聖徳太子が作られたのであれば、秦王国と大王家との関係、秦王国と蘇我氏の関係について明らかにする必要があります。
それは神武天皇以来の天皇家の由来にも関係するかも知れません。そうなると日本の歴史が大きく変わる可能性があります。

 
(4) 蘇我氏と聖徳太子の関係について関裕二氏は独自の説を唱えています。
すなわち、蘇我入鹿と聖徳太子は同一人であって、入鹿の事績を入鹿と太子の事績に分けたと考えるのです。
この説では秦王国の存在は不明です。

 

 

4. 乙己の変

乙己(いつし)の変とは蘇我入鹿の殺害により権勢を誇った蘇我本宗家が滅んだ事件です。
学校教育では、蘇我氏が天皇に成りかわろうとしたため、中臣鎌足が中大兄皇子と力を合わせて断行したことになっています。

 

4.1 乙己の変前夜

(1) 6世紀から7世紀にかけて、中国では戦乱の世に嫌気を抱く機運が高まります。
まず隋が国内を統一して統治制度やインフラの基礎作りをしました。
科挙や律令の制度、南北を結ぶ運河の建設などです。

 
(2) 隋が滅亡した後は唐がその統一事業を引き継ぎます。
初代は内政を重視して周辺国とは事を構えぬ政策をとりますが、国力が充実した太宗の代になると周辺国に対し覇権的な姿勢を示します。

 
(3) 韓半島の三国(三韓:高句麗・百済・新羅)は対応を迫られます。
具体的には南下の動きを示す高句麗に対し、百済と新羅は防備と反撃の構えをします。
三韓は大和朝廷に工作をしかけます。
武器の供与や軍勢の支援などですが、高句麗からは新羅や百済を後方から攻撃するような依頼もあったかもしれません。

 

4.2 乙己の変とその後

(1) この動きは遣隋使や遣唐使を通し、あるいは三韓との外交を通し、蘇我氏はもとより他の心ある人達も認識していたと思います。

 
(2) 祭祀と財政を異なる豪族が分担する統治方法を廃し、権力を集めた大王の下で官僚が支配する国体の必要性を認識し始めます。

 
(3) 蘇我入鹿は三韓のどの国のためではなく、この国のための統一を蘇我氏の力で成し遂げようとしたようです。

 
(4) 当時の朝廷に強い紐帯を築いてきた百済は、唐の侵攻から自国を守るための助勢を得るため、さらには最悪の場合に倭国に百済王朝を移すべく工作をします。
高句麗も倭の支援を得るべく様々な工作をしかけます。
新羅は三韓を統一して唐に立ち向かうことを画策しています。

 
(5) 中臣鎌足、中大兄皇子(余豊璋)、南淵請安(遣唐使留学生)などは蘇我氏を廃し、大王家に権力を集中させようとします。
そのため蘇我入鹿の殺害を計画します。
これは新羅の意向でもあったようで、暗殺決行前に新羅の水軍が来航することになっていたようです。

 
(6) 新羅軍船の来航の知らせを受けて入鹿の暗殺を決行します。
皇極大王は退位し、新羅寄りの軽皇子(かるのみこ)が大王位を継ぎます。

 
(7) 孝徳は蘇我倉山田石川麻呂などを大臣とし、高向玄理を国博士とする体制で唐・新羅の意向に沿った律令国家を目指しますが、百済の勢力を抑え切れないばかりか、大臣の蘇我倉山田石川麻呂を自殺に追い込むような失態を重ねるだけで、新羅が期待するような動きができません。
ついに百済勢力は飛鳥に戻ってしまいます。失意のうちに孝徳大王は死に、鏡皇女が斉明大王として重祚(ちょうそ:再度天皇位につくこと)します。
そして白村江の敗戦に至る不幸な道を辿るのです。

 
(8) 関裕二氏の推論では入鹿暗殺の実行犯は秦河勝です。
しかも殺害場所は飛鳥板葺宮ではなく、入鹿が住まう甘樫宮につながる飛鳥寺の西門あたりです。
近くに入鹿の首塚があります。
直接の殺害動機は入鹿が進める改革の目玉である公地公民制です。秦氏の所有する広大な桑畑が取り上げられる可能性があります。
もちろん、裏には政治的意図をもつ黒幕がいたはずです。百済や新羅の勢力はその候補と考えねばなりません。

 

 

5. 謎が残る各説

本稿では蘇我氏と聖徳太子についての様々な説を紹介しました。
飛鳥は蘇我氏が築いた防備を備えた都であって大王家が築いたものではないでしょう。
蘇我氏の祖はペルシャ付近にいたスキタイの一族だとする説を受け入れたいのですが、聖徳太子との関係が判然としません。
太子のモデルに秦王国の上宮聖徳法皇説がありますが、それでは秦王国の王族とはどのような一族で、大王家や蘇我氏とどのような関係があったのでしょう。
説は断片的で全体のつながりに欠けるのです。

 
いずれにせよ、支配階級の人々と日本列島の基層民とは油と水のように異なります。
自然の恵みに感謝と尊崇の念をもち、破壊することなく、循環する環境を尊び、多くを望まず、他と和して生きる人々が列島の基層民です。
策略や武力で一時的な覇権を手にしても列島では長続きしないことを、歴史の流れの中で確認したいものです。これからの社会は、普通の人々がこの列島の主人公でなければなりません。
そのためには庶民も知的になって真の歴史を知る必要があります。庶民に真実を知らせない集団はいつの世にもいるのです。

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カテゴリ: その他

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