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謎の遺跡マチュ・ピチュと文字なき文明古代インカ帝国

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マチュ・ピチュは、もとは古代インカ帝国で公用語としても使われていたというケチュア語を語源としていて、元の意味は「老いた蜂」である、とのことなのですが、今では多くの言語でそのまま「Machu Picchu」と呼ばれています。

しかし、インカ帝国では言語は存在していたものの、文字を持たなかったとされているため、現代に至っても、インカ帝国の詳細な記録や、マチュ・ピチュという遺跡自体の存在理由など、文字ベースで明らかになっていない謎は多数残されています。

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インカ帝国では文字が使われていなかった?

インカ帝国は、15世紀頃の中南米で栄えた帝国とされ、当時の文明社会は、マチュ・ピチュを有する現在のペルーのクスコ周辺でいくつか発見されている遺跡群などとあわせて「アンデス文明(マチュ・ピチュもアンデス山脈の山麓付近で発見されています)」や「メソアメリカ文明」に含めて語られていたりしています。
これ以前に存在していたという「世界4大文明(メソポタミア文明、黄河文明、インダス文明、エジプト文明が該当します)」とあわせて、「世界6大文明」というくくりで説明される場合もあります。

しかし、紀元前約4000年頃(一説によると、さらに数千年前には文字らしきものが使われていたともいわれています)には既に生まれていたという「文字」という存在が、数千年後の15世紀にまったく使われていない(または記録として残るに至っていない)ところには、やや疑問が残ります。

 

農耕や金属文化は高度だった?

文字を持たないという、ある意味文明としての大きなハンディがあった一方で、残された遺跡などから発見された痕跡からは、高度に発達した農耕技術や金属加工技術が見てとれるようです。

そもそもマチュ・ピチュを遺したというインカ帝国は、13世紀頃にその前身となる形でクスコ王国として成立し、その後インカ帝国を経て、1533年にスペイン人のコンキスタドール(スペイン語で「征服者」を意味します)によって滅ぼされています。
しかし文字がなかったことで、その文明や後年に遺すべきさまざまな情報は、当時の征服者であるスペイン人が残した記録しか存在していないとのことです。

ここから推測されることは、マチュ・ピチュとして残っている建造物はともかく、征服当時のインカ帝国に関する記録にはかなりスペイン人の解釈が入っているのではないか、ということです。このあたり、もう少し状況証拠を積み上げていく必要があるため、直ちに是非を判断することは困難なのですが、今となってはほぼ「事実を明確にする術はない」というのが実情です。

だからこそ、新事実発見を含めて、インカ帝国やマチュ・ピチュに関する事実究明が待たれているところなのです。

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カテゴリ: その他

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