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悲しい伝説のなかの鬼婆…能の「黒塚」にみる安達ヶ原の鬼婆

鬼伝説
 
能の演目で三鬼女とされるのは「葵上」「黒塚」「道成寺」に登場する鬼女、鬼婆ですが、ひとりの男性をめぐってライバルの女性との間の確執から心の内に隠された嫉妬や怨念が生みだした「葵上」の鬼と、「黒塚」「道成寺」の鬼とでは少し性格が異なっています。
それは、黒塚が「安達ヶ原の鬼婆」伝説、道成寺が「安珍と清姫」伝説と共に伝説をもととしたお話だからでしょうか。

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妊婦のお腹を裂いて胎児から胆を抜き取った鬼婆

安達ヶ原の鬼婆の伝説はこのようなお話です。

昔、京の都に公家の娘の乳母として奉公した女性がいました。彼女が可愛がる姫は生まれながらにして不治の病に患っており、その病を治すには妊婦の胎内にいる胎児の生き胆を飲ませるしかないという易者の言葉を、この乳母は信じてしまいます。
乳母は自分の幼い娘を京の都に置き、胎児の生き胆を求めて旅に出て、とうとう奥州の安達ヶ原(福島県二本松市)まで辿り着きます。そこで乳母は岩屋を住まいとして妊婦を待ち続け、長い年月が経ちました。
ある日、妻が身重の若い夫婦が宿を求めてこの岩屋にやってきます。乳母は夫が出かけたすきに妊婦を殺し、お腹を裂いて胎児の生き胆を取り出してしまいます。しかしこの妊婦が持っていたお守りを見て愕然とするのです。それは、乳母が旅に出る前に幼い自分の娘に渡したお守りだったのです。乳母は自分の娘と孫を殺してしまったのでした。

この出来事で乳母は気が狂ってしまい、それ以来、旅人を襲っては生き血と胆を食らう鬼婆となってしまいました。

 

鬼婆の由来伝説を締めくくる黒塚の伝説

安達ヶ原の鬼婆が生まれた由来の伝説は、なんとも残酷で悲しいお話でした。
能の演目である「黒塚」の題材になった伝説は、この鬼婆伝説を締めくくるお話になっています。

那智(紀伊国)の修験者である阿闍梨(あじゃり)の祐慶は同行の山伏とともに諸国修行の旅に出ていました。
奥州に辿り着いた一行は安達ヶ原で夜を迎え、一夜の宿を一軒だけあったあばら屋に求めます。そこは年を重ねた老婆がひとり住む家でした。祐慶たちは頼み込み、なんとか泊めてもらえることになりました。
家の中で祐慶は見慣れない道具を見つけました。それは枠裃輪(わくかせ)という糸を繰る道具で、女はこの道具を使って糸繰りを行って見せながら、辛い浮き世と我が身をしみじみと嘆き語ります。
夜も更け、寒さをしのぐために薪を取りに行く女は、自分がいない間に決して自分の寝間を覗いてはいけないと祐慶たちに伝えます。しかし祐慶の従者が我慢できず女の部屋を覗いてしまうと、そこにはおびただしい数の死骸や白骨が山と積まれていたのでした。女は黒塚に棲む鬼婆だったのです。
慌てて逃げ出す一同を怒った鬼婆が追いかけ取って食らおうとしますが、祐慶たちは勇気を振り絞って祈り伏せると、鬼婆は弱り果てて消え去って行ったのでした。

以上は能の演目でのお話ですが、伝説では祐慶の持つ如意輪観音菩薩像が金剛の矢で鬼婆を仕留め、仏の導きでやっと成仏したという結末になっているようです。
現在でも福島県二本松市安達ヶ原の観世寺には、鬼婆が棲んだという岩屋(笠石)や出刃包丁を洗ったという血の池(出刃洗いの池)、そして鬼婆の墓である黒塚などがあります。

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