オーラの階層「アストラル体」「メンタル体」「コーサル体」
人のオーラを見る人は、オーラを階層にわけて見ている場合がほとんどです。それらはエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーサル体などという具合に呼ばれています。なんだか難しそうな名前がついていますが、そう難しいものではありません。
粗大なエネルギーがエーテル体で、アストラル体、メンタル体、コーサル体の順にエネルギーが微細になっていきます。ちなみに人間の身体は、エーテル体よりももっと粗大なエネルギーからなっていると云われています。
私達は普段、気持ちだとか気分といった具合にエネルギーのことを安易にいっていますが、実際にはその気にはピンからキリまでの質があるのです。ヨーガを本格的にやっている人は、菜食主義となります。なぜでしょうか。牛や豚などの哺乳類を食べるのは、慈悲深くないためでしょうか。もちろん、それもあります。が、よりストレートな理由を含んでいるのです。
ヨーガを本格的に実践していると、身体のエネルギーの微細な部分まで捉えることができるようになると云われています。彼らの身体は、粗大なエネルギーからより軽やかで繊細なエネルギーへと変化していくのです。身体が軽やかになればなるほど、自由となります。悲しみや苦しみなどというのは、とても粗雑で重いエネルギーなのです。
肉や魚、アルコールなどはどうでしょうか。これらは、粗雑なエネルギーによってできていると云われています。それに対して、野菜や果物は軽やかなエネルギーによってできていると。そうしてみると、ヨーガを実践している者にすれば、肉やアルコールはあまりにも重すぎて、見ただけで気分が悪くなることもあるようです。
彼らは慈善だけのために菜食主義になるわけでなく、好みの問題として野菜や果物を食するのです。 そうしてみると、大金よ舞い込んでこい!とか、性欲を満たそうとする願いを祈祷師のごとく延々と思いつづけるのは重くはないでしょうか。
考えただけでも、しんどそうです。それならば、まだ弓矢の雨のほうが軽やかに感じられるかもしれません。つまりエネルギーを使う場合は、より微細で、自由なものに焦点を当てるべきなのです。
では普段、どのようにエネルギーを使うべきなのでしょうか?
私は、ここで強く申し上げなくてはなりません。「エネルギー!エネルギー!」と言ってきましたが、そもそもエネルギーの源とはなんでしょうか。それの正体とは?
もう、薄々と感じられていると思います。私達は、エネルギーに囲まれて生きていますが、それらは天から降ってくるわけではありません。お金が天から降ってくることが稀なように、素晴らしいエネルギーが天から降ってくることももっと稀です。
もし宝くじに当たるように、素晴らしいエネルギーに偶然当たってスーパースターになったという人がいたとしたら、どうか教えてください。私は、そんな話は一度も聞いたことがありません。
エネルギーは大切ですが、エネルギーそのものは道具に過ぎません。私達が主体で、エネルギーは道具なのです。エネルギーは、私達の思いが、意志が、意識の持ちようが生み出す産物でしかありえません。
水晶を見てください。無色透明の水晶ほど崇高な石が他にあるでしょうか。水晶は、あらゆる要素を含んでいます。力や愛、癒しを象徴とする石は他にもあるでしょう。しかし水晶はすべてを含んでいます。
強くあり、忍耐もあり、愛があり、寛大性もあります。光の三原色を知っているでしょうか。赤・緑・青色の光を集めると白色になります。
すべての光の色を集めると、白色になるといわれているのです。白色は、あらゆる色の要素を含んだ色というわけです。その白色が、さらに洗練されると無色透明となります。水晶とは、そういった石なのです。
水晶は、百年に一ミリしか大きくならないといいます。私達が目にしている水晶は、自然界のなかで何億年ももみくちゃにされ、あらゆる経験を経て水晶という石になったのです。そしてその色は、空気のように存在感のない無色透明です。
彼らはもはや、自分達のことを主張したりはしません。なにも主張せず、ただ周囲に恩恵を与えるだけです。彼ら水晶は、いったい私達に何を語っているのでしょうか。見えないエネルギーは魔術ではありません。特別なものでもありません。心の強さが強いエネルギーを生み、愛ある思いが暖かなエネルギーを生みます。こちら側の世界が幸せのエネルギーで、境界線を挟んだあちら側の世界が不幸のエネルギーと、エネルギーで隔てられているわけではないでしょう。
もしそうだとすれば、私達は境界線を挟んで、笑ったり泣いたりしなければなりません。いったい何のパロディですか。そういった類の話は、個人的には弓矢やお金が降ってくる話より好みですが、理性は納得しないでしょう。不自然なのです。
エネルギーの主体は、私達の意識の在り方と考えるなら合点がいきます。軽やかで繊細なエネルギーは、純粋で無邪気、自由な思いと共にあるでしょう。逆に重くて粗雑なエネルギーは、自分勝手で、強欲な意識の者と共にあるでしょう。
すべてのエネルギーの根源は、今ここにあり、私達の思いの元にしかありえません。エネルギーをより微細に、より強く、より潤わすとは、本来的には風水によってでもヒーラーによってでもなく、私達の内面を日々変えていく、努力の賜物以外にはありえないのかもしれません。