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「鬼門」は日本で独自に発展した信仰?~鬼門の意味と風水の不思議

土壁
 
風水を知っている人も知らない人も、一度は耳にしたことがあるに違いない不思議な言葉「鬼門」。何となく分かってはいるけれど、一体何を意味しているのか……。

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明確に理解している人は少ないのではないだろうか。

 

1・ 東の果ての大洋にあったという鬼の門

鬼門とは、北東の方位のことである。古代中国では鬼が出る方位として恐れられていた。その起源は、北東からやってくる騎馬民族の襲来を恐れたため、又は、北東から季節風が吹いたためなどと言われるが、定かではない。

鬼門という呼び名は、古代中国に成立したとされる世界最古の地誌(いわば郷土史)『山海経』の記述に始まる。「世界の東の果ての海に、桃都山(とうとざん)と呼ばれる山があった。山の上には、幹から枝の先まで3千里もあると言う巨大な桃の木があり、東北の隅の方の枝は絡まって門のようになっていた。夜になると、世界中の鬼神達がその門を通って人間界へ出入りしたので、神荼(しんと)と鬱塁(うつるい)という兄弟と虎にその門を守らせた。この門を、鬼門と言う」

これにより、東北の方位は恐ろしいというイメージに「鬼門」という名前がついて、さらに広まって行ったと考えられる。

また、鬼を退治した神荼と鬱塁の二人の名前はやがて信仰の対象になり、中国の春節には、桃の板に神荼と鬱塁の名前を書いて家の入口の両側に飾られるようになった。この風習が日本に伝わり、門松の由来になったとも言われる。

 

2・ 特に日本で忌み嫌われる鬼門

中国で生まれた鬼門は、風水の知識と共に日本に渡ってきた。その後中国では鬼門の概念は薄れていったのに対し、日本では鬼門の名がクローズアップされ、鬼門の真反対である南西の方位まで裏鬼門として恐れられるようになり、より一層重要視されるようになっていった。

日本の古い都、例えば平城京や平安京は、それぞれの鬼門と裏鬼門の方角に神社仏閣を配置して設計されている。江戸城の東北には、上野の寛永寺、永田町の日枝神社、さらに、平将門を祀った神田明神が、南西には、芝の増上寺が置かれ、徹底した鬼門対策がされていたとして有名である。また江戸時代には、鬼門の方角への引越しさえタブーとされるほど、鬼門は恐れられた。

現在の中国では、鬼門は単なる伝説的なものでしかなくなっているのに対し、日本ではいまだに鬼門が重視され、建築や都市設計、個人の家の設計や間取りにも鬼門を考慮する傾向がある。

 

3・ 宇宙と鬼門の関係

鬼門と黄道(こうどう)に関する面白い説がある。

黄道とは、太陽が地球の周りを回る通り道のことである(実際は、地球が太陽を回っているので、見かけ上の通り道である)。地球の地軸がわずかに傾いているため、太陽は地球の真横を回るのではなく、およそ23度ずれた軌道を回る。鬼門と裏鬼門は、その黄道上に存在しているのである。つまり、太陽が昇ってくる方角が鬼門、太陽が沈んで行く方角が裏鬼門になっているのだ。

日本には古来、万物の神である太陽を崇める太陽信仰があった。いつの時代にか、古代中国の不思議な伝説を、太陽信仰と結びつけて考えた人がいたのかもしれない。偉大な存在であり生きるために必要不可欠な太陽、それを恐れ敬う気持ちが、執拗なまでの鬼門信仰に繋がっていったのではないだろうか。もちろんその根拠となるものは何もない。

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