> >

諸王の女王クレオパトラのさらなる野望とアントニウス

不思議体験
 
共和政ローマの新しい実力者で、地中海世界の東方の支配者となったマルクス・アントニウスは、エジプト最後の女王クレオパトラ7世を愛人としました。このときクレオパトラはまだ28歳。彼女にとっては、グナエウス・ポンペイウス、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)に続く3人目のローマの最高権力者の愛人でした。

スポンサードリンク


 

オクタウィアヌとの対立と和解

クレオパトラの王権はアントニウスによって強化されました。アントニウスはアレクサンドリアにやって来て、紀元前40年の冬までクレオパトラと過ごします。2人は毎日宴会を開いて遊び暮らし、「信じられないほど度を超した」と表現されるような浪費生活を送りました。

しかしアントニウスは、ローマに帰ることを余儀なくされます。それはローマに残し代理人としていた妻のフルウィアと弟のルキアスが、西方の支配者となったオクタウィアヌス(後のローマ初代皇帝アウグストゥス)と紛争を起こしたからです。アントニウスがローマに帰ると間もなく妻のフルウィアは死亡し、それもあってオクタウィアヌスとは和解します。そして和解の証に、オクタウィアヌスの姉オクタウィアと結婚することになりました。

この間、クレオパトラはアントニウスの子供である双子のアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネを産んでいますが、アントニウスとはしばらく会うことはできませんでした。

 

諸王の女王となったクレオパトラ

3年後の紀元前37年、ギリシャにいたアントニウスは東の大国パルティアへの遠征を計画し、妻となったオクタウィアをローマに帰します。そして遠征へのエジプトの支援を要請し、クレオパトラにシリアまで来るように願ったのです。

クレオパトラとアントニウスは再会し、愛人関係も復活しました。それにより3人目の子プトレマイオスが誕生します。クレオパトラのアントニウスに対する影響力は高まり、その力によってエジプトはフェニキアを支配し、シリアの小国カルキスを併合します。

しかしこのエジプトの領土拡大は、つまりはローマの領土の割譲として捉えられ、ローマではアントニウスの裏切りという声も上がりました。そのようななか、紀元前36年にアントニウスはパルティアへ遠征を行いますが、結果は惨憺たる敗退でした。

クレオパトラは支援するためにフェニキアで合流しますが、アントニウスは再度のパルティア遠征を断念し、その替わりにアルメニアに侵攻して勝利します。

アルメニア戦に勝ったアントニウスは、ローマではなくクレオパトラの待つアレクサンドリアに凱旋しました。そしてその凱旋式典で、クレオパトラをエジプト、キプロス、アフリカ、コイレ・シリア(シリア南部)の女王とし、息子のカエサリオンは共同統治者とすることが発表され、クレオパトラは「諸王の女王」、カエサリオンはプトレマイオス15世カエサルとなり「諸王の王」と呼ばれることになりました。

 

クレオパトラとアントニウスの野望

プトレマイオス朝の伝統に則り、クレオパトラとプトレマイオス15世カエサルは形式的に結婚し母子の夫婦となります。しかしこれには深い戦略があったようです。

というのも、共和政ローマの西方の支配者であるオクタウィアヌスは、暗殺されたユリウス・カエサルの養子となり後継者とされましたが、カエサルにはカエサリオンという実子が残されています。そのカエサリオンがプトレマイオス15世カエサルとなり「諸王の王」となることで、ユリウス・カエサルの本当の後継者としていつの日にかローマで父の遺産を引き継ぎ、東方と西方を統合して真の意味での「諸王の王」つまり「皇帝」になり、そしてクレオパトラは「女帝」となるという野望でした。

アントニウスがローマではなくアレクサンドリアで凱旋式典を行い、このような発表がなされたことにローマは憤慨し、アントニウスとオクタウィアヌスの対決は決定的なものとなりました。

このエントリーをはてなブックマークに追加


スポンサードリンク
スポンサードリンク

Comments are closed.