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迫るローマの影!クレオパトラが王位につくまでの道のり

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エジプト・プトレマイオス朝の末期、王朝が途絶えてしまうという王家始まって以来の危機のなかで、最後の女王クレオパトラプ7世の父母であるプトレマイオス12世フィロパトル(愛姉者)とクレオパトラ6世トリュファイナが即位します。父母は姉弟、そしてその母は後世に名前を残すことのない妾妻で遊女であったかも知れません。

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エジプト併合を企むローマ

プトレマイオス12世が王位に就いたのは紀元前80年のことです。しかし地中海世界で勢力を誇る共和政ローマは、この就位を認めませんでした。というのも、前の王のプトレマイオス11世はエジプトのローマへの併合という遺言を遺しており、またプトレマイオス9世の妹で後妻であったクレオパトラ5世セレネが、その後シリア王のアンティオコス10世の妻となっていて、その子供をエジプトの王にしようと目論んでいたからです。

なかでもローマは、なんとかしてエジプトを併合しようとしていました。というのも、エジプトはナイル川の恵みによって常に豊かな国であり、首都のアレクサンドリアは当時世界最大の先進都市と考えられていたからです。

プトレマイオス12世は気が気ではありませんでした。紀元前64年には、シリア王国が先にローマに併合されてしまいます。そしてローマでは紀元前59年、エジプト併合を進めようとする民衆派を率いるユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が執政官に就任したのでした。いよいよカエサルが登場するのです。

 

王権をお金で買おうとするエジプト王

プトレマイオス12世は王権の終焉が近いとあせり、カエサルを買収しようと王の年収である6,000タラントと引換えに、自分を「ローマ国民の同盟者にして友人」のエジプト王として認めさせようとします。

古代地中海世界の通貨単位では、ドラクマ、ミナ、タラントがあります。現代の価値に換算するのは難しいのですが、1ドラクマは1990年当時の25USドルぐらいに相当するという研究があるそうです。100ドラクマが1ミナにあたり、60ミナが1タラントですから、6,000タラントは36,000,000ドラクマ。1990年当時は1ドル140円から150円でしたから、つまり9億ドルということで1兆円以上の額ということになるのでしょうか。エジプト王の年収が1兆円以上というのもすごいですが、この金額をカエサルに渡す条件としたのもなかなかのことです。

カエサルはこの条件を飲んで、ローマ議会にプトレマイオス12世をエジプト王とする法案を通しました。

 

ローマの絶大な影響力の下、クレオパトラは14歳に

しかし事態はまた動きました。プトレマイオス12世の弟であるキプロスのプトレマイオスが統治していたキプロスがローマの属州にされてしまい、キプロス王は自害してしまいます。

エジプト・プトレマイオス朝が領有していたのは、全盛期にはエジプト以外にキュレナイカ(エジプトの西、リビア東部)、パレスティナ、そしてキプロスですが、これらはすべてローマのものとなってしまいました。

これに怒ったアレクサンドリアの市民は暴動を起こしてエジプトは混乱し、プトレマイオス12世は王位を盤石にするためにローマに軍事介入をしてもらおうと陳情に行きます。しかしアレクサンドリア市民は、ローマを頼ったプトレマイオス12世がエジプトに戻ることを赦しませんでした。

アレクサンドリアでは、プトレマイオス12世の妻で姉のクレオパトラ6世トリュファイナが女王としてとどまっていましたが、紀元前57年に亡くなります。そこで王位は娘のベレニケ4世が継ぐことになりますが、兄弟姉妹婚が伝統のプトレマイオス朝であっても、長姉のベレニケ4世の弟はまだ3歳。そこでローマ随一の実力者であるグナエウス・ポンペイウスは、勢力下にあるポントゥス王国の将軍の息子をキュベレー神(ローマで信仰されていた大地母神)の神官にして、ベレニケと結婚させました。

しかしプトレマイオス12世は、10,000タラントの支払を約束してローマの軍隊をエジプトに侵攻させ、アレクサンドリアに帰国して王権を取り戻します。そしてベレニケ4世とその一派を殺害しました。

このときプトレマイオス12世に残っていた子供たちは、14歳のクレオパトラ7世を筆頭に9歳の妹、そして6歳と4歳のふたりの弟たちでした。

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