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クレオパトラは9人いた!プトレマイオス朝最後の女王の系譜

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古代エジプトの最後の女王クレオパトラは、正しくはクレオパトラ7世フィロパトルといいます。つまりクレオパトラは7世=7人目のクレオパトラということ。そしてそのあとに付けられたフィロパトルは「愛父者」という意味で、これは「添名」と呼ばれるものです。

添名は愛称や二つ名のようなもので、クレオパトラの王朝である「プトレマイオス朝」では代々同じ名前を名乗ることの多いことから、名前のあとにこの添名が付けられました。プトレマイオス朝創始者のプトレマイオス1世の添名はソテル(救済者)、その息子のプトレマイオス2世はフィラデルフォス(愛姉者)といった具合です。

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兄弟姉妹が結婚して統治者に

ちなみに、プトレマイオス1世がプトレマイオス朝の創始者としてソテル(救済者)という添名であるのはわかるとして、プトレマイオス2世の添名がなぜフィラデルフォス(愛姉者)かというと、プトレマイオス2世の2度目の結婚相手であるアルシノエ2世が実の姉だったからです。

プトレマイオス2世の最初の妻であるアルシノエ1世とは政略結婚でした。アルシノエ1世の父親は、プトレマイオス1世と同じくアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)の部下で、トラキアとマケドニアの王になったリシュマコス。そのリシュマコスの最後の妻として嫁いだのが、プトレマイオス2世の姉のアルシノエ2世だったのです。

つまり相互に政略結婚だったわけですが、姉のアルシノエ2世はリシュマコスと死別したあと、異母兄弟でリシュマコスのもとに身を寄せていて後にマケドニア王となったプトレマイオス・ケラウノスと再婚し、やがて彼と対立してエジプトに戻ります。そして、プトレマイオス2世の暗殺を企てたとしてアルシノエ1世を陥れて離婚させ、自分が弟の妻になったのでした。

なんともややこしい関係ですが、プトレマイオス朝ではこのように兄弟姉妹の近親婚が伝統的にたびたび行われます。また王と女王は、エジプトの共同統治者として同格でもありました。

 

シリア王国から嫁いで来たクレオパトラ1世

さて、一般に絶世の美女クレオパトラとして知られるクレオパトラ7世フィロパトルは、つまり7人目のクレオパトラというわけですが、彼女の娘もクレオパトラ(クレオパトラ・セレネ)ですし、ほかにもクレオパトラ・ベレニケという名前のクレオパトラがいますので、古代エジプト王国の歴史には実は9人ものクレオパトラがいたということになります。

最初のクレオパトラであるクレオパトラ1世は、プトレマイオス5世エピファネス(顕在者)の妻です。彼女は、エジプトとマケドニアと同じくアレクサンドロス帝国が分割して建国されたヘレニズム3国のひとつ、セレウコス朝シリアの王アンティオコス3世の娘で、エジプトとシリアの間で起こった第5次シリア戦争がローマの調停で和平が成立したあと、わずか11歳でシリアから嫁いで来ました。一方、6歳でエジプト王となったプトレマイオス5世はこのとき17歳でした。

 

後の最後の女王を予感させるクレオパトラ3世

プトレマイオス5世とクレオパトラ1世との間に生まれた娘は、クレオパトラ2世になります。クレオパトラ2世は兄のプトレマイオス6世フィロメトル(愛母者)と結婚し、プトレマイオス6世が後にプトレマイオス8世エウエルゲテス(善行者)となる弟に追放されると、弟と王国を分割統治します。

やがてプトレマイオス6世が死去すると、クレオパトラ2世はこの弟のプトレマイオス8世と結婚するのです。なおプトレマイオス7世はプトレマイオス6世とクレオパトラ2世との間の息子で、このときに追放されてしまいます。兄の次に弟との兄妹・姉弟婚と、ここもずいぶんとややこしい関係です。

プトレマイオス6世とクレオパトラ2世との間にできた娘がクレオパトラ3世となりますが、クレオパトラ2世が再婚したプトレマイオス8世はこの姪のクレオパトラに熱をあげてしまいます。やがて姪のクレオパトラとも結婚、エジプトはプトレマイオス8世と親子で両方とも妻となった2人のクレオパトラと3人の共同統治になります。

その後プトレマイオス8世が死去するとその遺言により、クレオパトラ3世がエジプト全土の統治者となり、テア・エウエルゲテス(善行の女神)という添名を名乗ります。やがて神格化されて、エジプト神話の女神であるイシス神と同一視され「イシス、神々の偉大なる母」と呼ばれるようになります。それは、後の時代に最後の女王となるクレオパトラ7世の登場を予感させるものだったのかも知れません。

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