獅子舞の2種類の系統:伊勢大神楽の総舞
獅子舞を舞い伊勢神宮の神札を配りながら諸国を巡った「伊勢大神楽(いせだいかぐら)」獅子舞は、江戸時代には伊勢神宮と江戸幕府の両方から神職の身分を許可されて諸国を回りました。つまり政府公認の獅子舞だったわけです。
伊勢大神楽は太夫による家元制で、本拠地は桑名(三重県桑名市)の近村の太夫村にあり増田神社を奉じて、宗家の山本源太夫家を筆頭に最盛期には12家の家元が活動していたということです。現在は、江戸後期から明治期に太夫村と勢力を二分し、後に衰退した東阿倉川村の家元で桑名に移った石川源太夫家を加えて5家のみが存続しています。
総舞では寄席の芸能の原型も演じられる
伊勢大神楽では「総舞」という、その土地の産土神社(うぶすなじんじゃ)などで行われる芸能があります。これは「舞」という獅子舞と「曲」という放下芸で行われる16種類の演目のことで、放下芸とはまさに伊勢大神楽のルーツとされる散楽の一部として伝わった大道芸のことです。
例えば「綾採の曲」ではバイと呼ばれる3本の木の棒を空中に投げて操るジャグリングで、「皿の曲」は皿回し、「傘の曲」はから傘の上で手鞠や茶碗などを回します。
つまり曲芸というわけですが、これらの芸はお正月になるとテレビでも寄席芸能として見る機会があります。これは「太神楽(だいかぐら)」と呼ばれ、江戸時代末期から寄席の演芸として発展したもので、海老一染之助・染太郎さんの曲芸のように「曲」の放下芸だけが有名ですが、じつは獅子舞の余興的な曲芸の演目が大道芸や寄席の演芸になったものなのです。
もとは伊勢大神楽の「総舞」のように、獅子舞とセットとして神社で奉納される神事の芸能だったわけです。
天狗の神様、猿田彦が獅子を神獣へと導く
さて、伊勢大神楽の「総舞」の「舞」つまり獅子舞では、11種類の演目が行われるのですが、この獅子舞では小獅子と呼ばれる「一人立」の獅子が多く舞われます。また獅子とともに登場するのが国津神の「猿田彦」で、猿田彦は獅子を導く役となっています。
猿田彦といえば、天孫降臨神話で高天原から下りた邇邇芸命(ににぎのみこと)を地上に導いた神様として知られ、背がとても高くて鼻が長く、目が赤く輝いていたというその姿から天狗のルーツともされていることで有名です。
猿田彦の故郷は伊勢で、天孫降臨の際に相対した天宇受売命(あめのうずめのみこと)と一緒に伊勢へと帰ります。猿田彦はいわば“導く神”で、また猿田彦とともに伊勢に行き仕えるようになった天宇受売命は、天照大神の岩戸隠れの神話で岩戸の前で踊った“芸能の女神”です。そんなことから伊勢大神楽の「総舞」の獅子舞で、獅子を導く神として猿田彦が登場するということでしょうか。
獅子舞の演目では、猿田彦が獅子の脇で何度も跳ね飛び、あるいは猿田彦の持つ扇を獅子が欲しがってじゃれつくなど遊びを通じて修練を重ね、ついには猿田彦が獅子に扇を与えることによって、獅子は神獣となるのです。
獅子舞で演じられる伊勢大神楽の起源
また「吉野舞」という演目では、壬申の乱で吉野に身を隠したのち桑名に来訪した際に、増田庄霞ヶ岡というところに登って伊勢神宮を遥拝して戦勝を祈願し宿泊したところ、大海人皇子の夢枕に「天木綿筒命(あめのゆうづつのみこと)」という神が現れ、自らを猛獣の姿に変えて大海人皇子の戦勝を約束したという伝承にちなんだ舞いです。
大海人皇子は壬申の乱に勝利して天武天皇となった後に、増田庄霞ヶ岡に増田神社を造営し天照大神をはじめとした四神を祀るとともに、土地の一族に命じて天木綿筒命の像を造らせ、神楽などを演じさせて奉納したのが伊勢大神楽の起源であると伝承されています。
天木綿筒命については他に資料がないようで、どういう神様だったのかはよくわかりませんが、別の記載で神名を「天の夕筒」とされているようで、「夕筒」とは金星のこと。金星と言えば、鞍馬山に金星から650万年前に降り立った護法魔王尊が天狗のこととされていますから、この天の夕筒とは天狗のこと、つまり天狗と同一とされる猿田彦のことと考えるのは突飛でしょうか。
伊勢大神楽の「総舞」の最後は「魁曲」という演目で、獅子舞と放下芸が融合して演じられ、天宇受売命の「おかめ」も登場して賑やかに締めくくられます。