初代村長が日本人?マチュ・ピチュと日本の意外な関係
世界遺産に登録され、さらには「新・世界の七不思議」にも選出されている、15世紀インカ帝国の遺跡といわれるペルーのマチュ・ピチュ。アメリカの探検家であるハイラム・ビンガムという人物に発見されたのは1911年といいますから、少なくとも数百年間は人知れず存在していたことになります。
南アメリカのペルーという、日本から遠く離れた国の山中で長い間発見されずにいたマチュ・ピチュなのですが、意外なことに日本とのつながりが深いことは、あまり知られていません。
一見なんの関連性もないように見える日本とマチュ・ピチュ、そしてマチュ・ピチュを擁するペルーですが、実はいろいろな側面で日本と関連性を持っています。
日本とペルーとのつながりは19世紀から始まった
マチュ・ピチュが建設された理由は今も明確には判明していないものの、現在のペルー共和国付近で栄えていて、なおかつ16世紀当時、大きさとしては世界でも有数の規模を誇っていた「インカ帝国」と何らかの関連性があること、マチュ・ピチュそのものがインカ帝国の神殿や砦である可能性が高いことなどが、現在定説となっています。
16世紀当時の日本は室町時代や安土桃山時代など、いわゆる「戦国時代」に該当する時期であり、南米の巨大帝国とは縁もゆかりもないはずなのですが、現在のペルーには日系人がおよそ10万人もいるとされ、1990年から2000年の10年間のペルー大統領には、日系二世のアルベルト・フジモリ氏が就いています。
事情を知らなければ奇妙にも映る「日本とペルーのつながり」のきっかけは、明治初期にまで遡ります。1899年、明治政府の時代に日本とペルーは国交を結び、多くの移民が海を渡ってペルーに移住し、日系社会を築きました。
マチュ・ピチュ調査にも関わった日本人
さらに後年、1958年からの約50年間、東京大学の調査団が、マチュ・ピチュの遺跡発掘に参加していたのです。
また、ペルー最大の鉱山であるアンタミナは、世界有数の銀、銅などの生産量を誇るのですが、日本の企業が今も参加しているとのことです。
こういった関係性に先駆けて、1917年、日本から移民としてペルーに渡った農家出身の野内与吉という人物は、マチュ・ピチュ遺跡が存在しているマチュピチュ村の初代村長を務めました。
2015年には初代村長の野内与吉氏が福島県大玉村出身であることの縁で、ペルーのマチュピチュ村としては初めての友好都市協定を、大玉村との間で締結しています。
このように、1911年に発見されて以来、マチュ・ピチュは、非常に日本との関連性を持つ遺跡なのです。