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相対性理論から始まったブラックホール研究の歴史

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1905年にアルベルト・アインシュタインが発表した「一般相対性理論」や「特殊相対性理論」では、ブラックホールという概念は、まだ命名もされておらず、理論的学術的な学説の一部でした。しかし1916年、カール・シュヴァルツシルトが、アインシュタインの発表した「一般相対性理論」をもとに、重力場の記述の一部である重力方程式を掘り下げて、ブラックホールの実在可能性の説明のベースとなりうる最初の特殊解を発表しました。これは、氏の名前をとって、「シュヴァルツシルトの解」と呼ばれています。

その後、さらにブラックホールの研究は推し進められ、研究者のひとりである、アメリカのジュリアス・ロバート・オッペンハイマーが、「シュヴァルツシルトの解」と、当時並行して研究されていた「星の寿命」の学説を結び付けて、ブラックホールの概念のベースを作っています。

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ブラックホールの命名

1938年頃に歴史の登場した「ブラックホール的な概念」は、「シュヴァルツシルトの解」を経て、いよいよ1960年代には、「物理学的に起こりうる、重い質量を持つ物質が、周囲の空間に影響をおよぼして発生する重力場」が、「重い質量を持つ星が進化し、最終的には消滅する際に起こりうる」という理論にまで突き詰められることになります。

ちなみにジュリアス・ロバート・オッペンハイマーは、第二次世界大戦当時、アメリカはニューメキシコ州で原子爆弾の開発を目的として設立されたロスアラモス国立研究所の所長であったことも知られており、原子爆弾開発の計画である通称「マンハッタン計画」を主導していたことから、「原爆の父」としても有名な人物です。

彼は、1930年代までブラックホールの研究に没頭していたものの、世界的な戦争の勃発によって、1943年から、原子爆弾開発への路線変更を余儀なくされたため、結果的に、ブラックホールという名称の命名を含めて、いくばくかの「研究対象の路線変更」がなされることになりました。

 

中性子星とブラックホール

「重い質量を持つ星がいきつく最期の状態」のひとつを「ブラックホール」と呼ぶようになるのは、1967年以降になります。この歴史的な命名をおこなったのは、ジョン・ホイーラーという人物です。

ジョン・ホイーラーは、先に述べた「マンハッタン計画」にも参加していた人物で、アインシュタインの共同研究者としても活動していた、といいます。1967年に、相対性理論をベースに「星の最期の姿」として、ブラックホールと中性子星という呼称を生み出しました。

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カテゴリ: その他

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