手がかりはいずこ?ロアノーク島の集団失踪事件を解く鍵とは
1590年、北アメリカのロアノーク島で100人余りという大人数が忽然と姿を消してしまったという、20世紀の代表的なミステリーのひとつ「ロアノーク島集団失踪事件」では、事実が解明されていないだけに、数多くの仮説が立てられ、今も検証が継続されています。
主流派の仮説として「ロアノーク島の先住民に、入植者が同化した」というもの、それから「近隣の別の島(ロアノーク島に残された文字からクロアトアン島であることが有力)に全員で移動した」という説のふたつが存在しています。
19世紀の成立したクロアタン法案
ロアノーク島の失踪事件が発生してからおよそ300年が経過した1885年、アメリカのノースカロライナ州はロブソン郡という、現在のアメリカの中でも多種多様な人種が暮らしている地域にて、「クロアタン(クロアトアンと同義であると思われます)法案」という法律が成立しました。
これは、19世紀当時に、この地に既にたくさん暮らしていたインディアン(地域の名はクロアタンですが、インディアン達は自らを「タスカローラ族」と名乗っていたそうです)を、公式に「クロアタン族」として認めるといった内容でした。
彼らがこの地に住むようになった経緯として、クロアタン族の関係者は次のように語っていたといいます。
「常に白人に対して友好的であり、イングランドからの物資救援を待っていたが、救援部隊が訪れることがなかったため、最初の居住地から離れて漂流をはじめ、クロアタンに落ち着いた」。
これを聞くと、もともとはクロアタンではないどこかにいて、なおかつイングランドからの救援を待っていた、ということが推測できます。
ロアノーク島の人々の消息を求めて
また、1590年の失踪事件発覚当時、スペインとの戦争で多忙であったイングランドにはロアノーク島の事件の真相究明にかける労力が不足していたのですが、その後1600年代になって再調査に乗り出しています。
1607年、イングランドの探検家のジョン・スミスが、再び本格化したロアノーク島の植民地化(最初の命名にちなんで「ヴァージニア植民地計画」と命名されていました)の動きに合わせて、ロアノーク島入りしています。
ここでは、その時点でロアノーク島に暮らしていた先住民(つまり通称「インディアン」)の酋長に失踪者の消息を確認しています。具体的には「この周辺にイングランド人のような姿、生活様式を持つ者がいるか否か」というものでした。