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ロアノーク島の集団失踪事件の裏に先住民とのトラブル頻発が?

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1590年に発覚した「イングランド植民地であるロアノーク島の入植者集団失踪事件」の当時、スペインとイングランドとの間では、英西戦争と呼ばれる紛争が起こっていました。

紛争は、1604年にロンドン条約を結んで終結するまで、断続的に継続していました。その中には、新大陸からの金銀の輸送時の海賊行為や、植民地自体の奪い合い、いわば「新世界の覇権争い」的なものも含まれていました。

こういった背景があった最中に、集団失踪事件は起きています。

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入植当時に生まれた赤ん坊

1587年のロアノーク島への2度目の入植時(1度目の入植は、1585年におこなわれて、準備不足を主な理由として、一度断念しています)の初期のエピソードとして、ある赤ん坊の話が伝わっています。

ロアノーク島への入植を主導した、エリザベス1世の寵臣ウォルター・ローリーは、ロアノーク島の現地での監督として、友人で芸術家でもあったジョン・ホワイトを知事に任命しています。

同年8月にはホワイトの娘であるエレノアという女性が、ロアノーク島、ひいてはアメリカ大陸で初の欧州の赤ん坊を誕生させました。島に命名された名前にちなんで、赤ん坊はをヴァージニア・デアと名付けられました。

 

入植地の光と影

しかしこの当時すでに、1度目の入植者と先住民の間でトラブルが起こっていたことが判明しています。

実は1度目の入植の際、入植してきた側と先住民との間で、「イングランド本国から持ち込んだ銀のコップを先住民が盗んだ」という話から発展したトラブルが発生し、そのあおりを受けて、先住民側の指導者である酋長が火あぶりの刑で処刑される、という事件が起きていました。

 

関係はさらに悪化して…

1度目の入植時に起こった先住民とのトラブルについて、明確な解決がなされないまま2度目の入植がおこなわれたため、先住民とのトラブルは続き、ついには2度目の入植者が殺害される、という事件が起こっています。

この事件については、ジョージ・ハウという名の入植者が海辺でカニを探していたところ、先住民に殺害されたと伝えられていますが、事実としてどのようなやり取りがあったのかは記録として残されていません。

その後に行われる「イングランド本国への物資補給」の背景には、こうした現地の状況をイングランド本国に伝える、というミッションもあったのです。

しかし、ロアノーク島からイングランドへの航海は、先にお話したスペインとの紛争の最中であったこともあり、そう簡単に遂行できるものではありませんでした。それでも航海は決行され、結果的には出発から3年後の1590年に、ようやくロアノーク島に戻る算段が付き、その時点では島の入植者と連絡を取ることができていたそうです。

しかし、1590年8月に補給本体がロアノーク島に戻ってみたところ、植民者は姿を消し、生活していた家屋や砦の類の一切は解体されていて、なんら失踪の手掛かりを得ることができなたったのです。

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カテゴリ: その他

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