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失われた記録:ロアノーク島集団失踪事件が起こった背景

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1590年、イングランド本国からの物資補給のため、入植先である北アメリカのロアノーク島から一旦本国に戻った入植者管理者一行は、当時勃発していたスペインとの戦争とのあおりを受けて、ロアノーク島に戻るのが当初予定よりも相当遅れてしまいました。

本国に向けて出発したのが1587年、ロアノーク島に戻ったのが1590年ですから、実に3年の間、島の管理をおこなっていなかったということになります。その間に100人余りの入植者(一説には150人程度ともいわれています)はひとり残らず姿を消していた、といいます。

失踪の原因について、事実関係から考察してみましょう。

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唯一の手掛かりは、木に残された文字

入植者が一人でも残っていれば、イングランドから戻った一行が、3年の間に起こった出来事を直接ヒアリングすることもできたのですが、誰ひとり残ってはおらず、残された入植者の痕跡としては、島の砦の木に刻まれた「クロアトアン(CROATOAN)」と「クロ(CRO)」の文字だけでした。

現代とは異なり、あらゆる事象は人間によるアナログな伝聞(手紙や著書という媒体を含む)に頼るしかなかった時代、客観的な材料としては、「1587年から1590年の間に、ロアノーク島にいたはずのイングランドからの入植者100人余りが、忽然と姿を消したこと」、「文字が残されていたこと」、この2点しかありません。

 

背景にあったスペインとの戦争

ロアノーク島に3年の空白を生むことになった直接の原因は、1585年から1604年まで継続されていたという「イングランドとスペインの戦争」です。この戦争は、英西戦争と呼ばれていて、当時のハプスブルグ朝スペインと、イングランドとの大規模な小競り合いでした。

通常であれば戦争は宣戦布告を宣言することで勃発するのですが、この戦争では宣戦布告がおこなわれなかったため、戦争というよりも「断続的な紛争」という位置付けで世間に浸透しています。

この紛争のきっかけのひとつになっているのが、新世界(欧州から見た南北アメリカや、日本を含むアジアやオーストラリア、アフリカなど、当時共有認識として浸透していなかった世界を指します。新大陸とも呼ばれています)を巡る利権争いです。

両国は新世界の開拓、短絡的にはエネルギーや資源を得るための活動に余念がなく、新世界に赴く道中となる海上においてしばしば衝突していたのです。このこととロアノーク島の集団失踪事件は何らかの関係があるのかもしれません。

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カテゴリ: その他

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