「CROATOAN」の文字を残し…ロアノーク島集団失踪事件の経緯
イングランドの、時の女王であったエリザベス1世の寵臣、ウォルター・ローリーによる、ロアノーク島への1584年の最初の入植は、結局のところ失敗に終わってしまいました。
しかしこの時には、後世に伝承される大きな謎である「集団失踪事件」はまだ起こっておらず、農作物ができなかったり、現地に既に存在していた先住民と良好な関係を築けなかったり、といったような、現実的な原因による失敗でした。
その後ローリーは計画を再考し、最初の失敗から3年後の1587年、再び入植活動を開始します。
要員を多様化して再入植
初回の入植の失敗要因としては、「農作物が育ちにくい土壌である」ということで、ロアノーク島の土壌に早々に見切りをつけてしまったこと以上に、先住者とのトラブルが、失敗要因として大きく着目されました。このため、初回の入植時と比較して、より多様な要員構成の入植者を組織して、2回目の入植に臨んでいます。
さらに今度は、ジョン・ホワイトという人物を現地の監督官として設置し、管理面でも改善を図ったうえでの再入植でした。前回の失敗を踏まえて、イングランド本国からの物資輸送や情報伝達の手段なども確保していたため、再入植はうまくいくかに見えました。
残されていたのは刻まれた文字のみ
ロアノーク島への入植はイングランドにとっては初の北アメリカへの入植であり、その後の拡大戦略の見通しを付けておく必要があるとともに、植民地政策の戦略上、非常に重要な位置付けとなる作戦行動でした。けれども並行してイングランドが抱えていた「スペイン無敵艦隊との戦闘」という問題も解決すべき重要課題としてエリザベス1世に重くのしかかっていたため、ロアノーク島への入植はスムーズには進みませんでした。
物資補給のためいったんイングランドに戻るよう命じられたホワイトは、イングランドに戻ったものの、並行して動いていたスペイン無敵艦隊の問題への対策として、イングランドに留まるよう命じられました。その後、ホワイトが物資と共にようやくロアノーク島に戻ることができたのは、1591年になってからでした。
しかしそこでホワイトが見たもの、それは、ひとり残らず入植者の姿がないロアノーク島と、木の幹に残された「CROATOAN」という単語と、単語の前半を示す「CRO」という文字でした。
こうして、現代にも伝承されているロアノーク島の「集団失踪事件」は確認されたのです。21世紀にまで時代が進んだ今、この謎は未だ解明されていません。