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吸血鬼ドラキュラの誕生(1)ドラキュラ以前のヴァンパイア

吸血鬼
19世紀末の1897年、吸血鬼の代名詞とも言えるヴァンパイアを主人公とした小説が発表されました。それがアイルランド人の作家ブラム・ストーカーが書いた小説「吸血鬼ドラキュラ」です。現在でも「ドラキュラ=吸血鬼」と誤解されることはありますが、ドラキュラとは「吸血鬼ドラキュラ」に登場する人名なのです。

ですがそれほどまでに吸血鬼を代表する吸血鬼となったドラキュラは、どうして生まれたのでしょうか。じつは「吸血鬼ドラキュラ」が世界最初の吸血鬼小説ではなく、それ以前に出発点となる小説が存在したのです。

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世界で最初の吸血鬼小説とは?

19世紀の初めの1819年に、ジョン・ポリドリが書いた「吸血鬼(ヴァンパイア)」という短編小説が発表されました。この小説が、世界で初めての吸血鬼小説であるとされています。その物語はこんな内容です。

あるとき、夢想家のオーブレーという人が、ダンディで超然とした雰囲気のルスベン卿という男と知り合います。彼に興味を惹かれたオーブレーは、この男と旅に出ることになります。しかし旅の途中でルスベン卿はある女性を辱めようとし、オーブレーは女性を救ってルスベン卿とは袂を分かち、ひとり旅を続けることになりました。

ギリシャの旅先で、オーブレーはイヤンテという娘と出会い好意を持ちます。イヤンテは、吸血鬼の古い伝承をオーブレーに話してくれるのでした。その数日後、イヤンテは吸血鬼が出るといわれる森のなかで、首を噛まれて死んでしまいました。その死体の傍らには、変わった細工が施された短剣が落ちているのが発見されます。

この出来事にショックを受けたオーブレーは寝込んでしまいますが、お見舞いに現れたのはルスベン卿でした。彼は心を入れ替えたと、2人での旅の再開を誘います。ルスベン卿の言葉を信じたオーブレーは再び旅立ちますが、山道で賊に襲われてしまいルスベン卿は殺されてしまうのです。そしてその死の間際に、自分の死を誰にも言わないことをオーブレーは彼に誓わされるのでした。

翌日、その現場にオーブレーが行ってみると、不思議なことにルスベン卿の死体は消えていました。そして遺されたルスベン卿の荷物を開けてみると、そこにはイヤンテの死体の側に落ちていたあの短剣の鞘が入っていたのです。

 

 

世界初の吸血鬼小説を生みだしたのは、あの詩人のバイロンだった

この物語の原案は、じつはイギリスの著名な詩人バイロンの作だとされています。
1816年に5人の男女が、バイロンが借りているスイス・レマン湖畔の別荘に集まって怪奇譚を披露し合ったという「ディオダディ荘の怪奇談義」で、皆がひとつ怪奇作品を創作しようという提案がされました。そのときバイロンが書いた短いエピソードがこの「吸血鬼(ヴァンパイア)」のもとになっていて、バイロンの侍医であったジョン・ポリドリが小説として完成させたということだそうです。

しかし出版されたときには、編集者の意向で作者はバイロンとされていました。ジョン・ポリドリが描いた吸血鬼のルスベン卿のモデルはバイロンで、数多くの恋愛に耽溺したバイロンの姿が投影されているのだとか。

またちなみに、「ディオダディ荘の怪奇談義」に参加した女性のひとりであるメアリ・シェリーは、後にあの「フランケンシュタイン」を書き上げました。つまり吸血鬼と双璧をなすフランケンシュタインの怪物も、このバイロンのレマン湖畔の別荘での集まりから生まれたわけです。

 

 

19世紀ヨーロッパに一大ヴァンパイア・ブームが出現する

ジョン・ポリドリの「吸血鬼(ヴァンパイア)」は、大きな影響をもたらします。フランスでは作家のシャルル・ノディエの手によって演劇となり、ドイツでは作曲家のハインリヒ・マルシュナーがこの小説を題材としたオペラを書きます。

その後イギリスではエリザベス・グレイという人が、初めての女吸血鬼の小説「骸骨伯爵、あるいは女吸血鬼」(1828年)という作品を発表し、フランスでは美しい女吸血鬼クラリモンドと聖職者との恋を描いた「死霊の恋」(1836年)が刊行されます。

また1842年にはイギリスでマルコム・ライマーの「吸血鬼ヴァーニー」が刊行され、1872年にはアイルランド人作家のシェリダン・レ・ファニュによる「女吸血鬼カーミラ」が発表されました。

このように19世紀は、ジョン・ポリドリの小説を出発点としてヴァンパイア・ブームが起こったのです。そしてそれは、19世紀末にブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」で到達点を迎えたのでした。

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