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吸血鬼事件(3)公式に記録されたヴァンパイア

吸血鬼
吸血鬼は英語では「ヴァンパイア(Vampire)」と言います。これは一般的にはリトアニア語で「飲む」という意味の「Wampti」から来ているとされています。このヴァンパイアという呼び名が広く使用されるようになったのは、18世紀以降のことだそうですが、この呼び名が初めて公式に記録された事件が、まさに18世紀の1725年に起こっているのです。

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セルビアで起こった死体が蘇る吸血鬼事件

1725年9月セルビア領のラーム郡キシロファ村で、ある農民が死亡して埋葬された筈が、それから1週間の間に村人を9人殺害したという事件が起こりました。

当時セルビアは、バルカン半島を主戦場としたオーストリアとオスマン帝国の間の戦争(墺土戦争)が終了した直後で、オーストリア軍が占領していました。キシロファ村で起きた事件は、このオーストリアの占領軍から報告されたものです。

それによると、その農民はペーター・プロゴヨヴィッチという者で、死亡して確かに墓に埋葬されたにも関わらず村人の前に姿を現し、ペーターと会った9人の村人は首を絞められるなどされてその後に著しく衰弱し死亡したというのです。それ以外にもペーターが妻の前に現れて靴を持って来るように言ったとか、息子の前に現れて食べ物を欲しがったが息子は拒否し、結局、息子も死亡したという記録もあるそうです。

 

 

ヴァンパイアの記事はヨーロッパ中に広まった

この事件を受けて、教会の教区司祭が立ち会いのもと、埋葬されて10週間が経ったペーター・プロゴヨヴィッチの墓が暴かれました。

そのときに司祭らによって記録された文献によると、ペーターの遺体は死者特有の臭気がなく、身体も鼻が少し低くなったぐらいで欠損もなく生きていたときと同じ状態であったこと。さらに毛髪やヒゲ、爪が伸び、古い皮膚も白くむけて新しい皮膚ができており、口の中には血があふれていたのだそうです。

村人たちは、これがペーターがヴァンパイアになった証拠だと判断し、司祭たちが見守るなかで彼の心臓に杭を打ち込みました。するとペーターの死体の胸からは、大量の鮮血がほとばしったということです。
この「ペーター・プロゴヨヴィッチ事件」の記事は、ヨーロッパ中を駆け巡りました。そうすると各地から同じような吸血鬼事件の報告が出て来たのです。

 

 

ヴァンパイアの言葉が定着したもうひとつの事件

ペーター・プロゴヨヴィッチ事件の2年後の1727年から1728年にかけて、同じセルビアのメドヴェキア村というところで再び事件が起きます。

ある日、傭兵であったアルノルト・パウルが干し草を運搬する車から転落し、首の骨を折って死亡します。しかし埋葬されたアルノルトはヴァンパイアとなって復活し、何人もの人たちを襲ったというのです。この報告を知ったオーストリア軍の地方司令部は、事件を調査するために将校と医師をメドヴェキア村に送り込みました。

傭兵仲間の証言によると、アルノルトは以前にオスマン帝国軍の支配下にあったゴサワという場所の近くでヴァンパイアに取り憑かれ、そのヴァンパイアが眠る墓の土を食べ血を身体に塗ることで、自身を護ったという話をしていたのだそうです。

村人たちはヴァンパイアとなったアルノルト・パウルの凶行を終わらせるために、彼の墓が暴きました。すると死体は腐敗しておらず、目や鼻、口や耳からは鮮血が見られ、さらには着ている衣や死体を包んだ布、柩の中までが血に濡れていたのでした。そこで死体の胸に杭を打ち込むと、大量の血が吹き上がったといいます。

軍から派遣された将校と医師は、あらためて墓と柩の中の死体を調査し、その調査結果は報告書としてまとめられました。この「アルノルト・パウル事件」の検死報告書は、ヨーロッパ中に広まり読まれました。そして、イギリスでロンドン・ジャーナルが翻訳したときに、「ヴァンパイア(Vampire)」という言葉が英語の単語となって現在に至るのです。

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