吸血鬼の起源と伝承(3)中世になぜ魔女やヴァンパイアが注目されたのか
ヨーロッパが古代から中世(5世紀から15世紀)へと時代が移り、キリスト教の世界となって社会の隅々にまで教会組織が発展していくと、吸血鬼の存在や伝承も闇のなかに埋もれながらそれでも連綿と伝わり続けました。
中世は、ヨーロッパ各地の吸血鬼についての様々な言い伝えが、共通したヴァンパイア像としてまとまっていった時代でもあり、それには「ロマ(ジプシー)」と呼ばれるヨーロッパのなかを移動して暮らす人たちの存在が大きかったと言われています。
ロマたちは主にインドに起源を持つインド・アーリア人系の民族とされ、中東や東欧を経て中世にはヨーロッパに渡って来ました。彼らは、各地の伝承を拾っては別の地域に広める役割を果たしていて、そのなかには吸血鬼の伝承も含まれ、イメージや特徴も共通化していったようです。
吸血魔女を勝手に火炙りにしてはいけないという法律があった
ヨーロッパ中世の初期にできた法典として、「サリカ法典」(6世紀初頭に成立)というものがあります。これは、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン人のフランク王国の法典で、それ以前からあった「ローマ法」に代って後世まで西ヨーロッパの法律に影響を与えたものです。
9世紀初めの「カール大帝」のときに改定されて再発行されましたが、このサリカ法典のなかに「いかなる者であろうとも、ヴァンパイア(ストリゲス)の疑いがあるとして他人を火炙りにした者は死刑に処す」という記述があるそうです。
「ストリゲス」とは古代ローマからの伝承にある吸血魔女のことで、死んで吸血鬼になったのではなく生きながら吸血鬼となっている者です。夜にはカラスに変身し、子供の血を吸うという女吸血鬼で、一種の魔女と考えられていました。
サリカ法典で言っているのは、つまり「他人を吸血魔女と決めつけて、勝手に火炙りの刑に処してはならない。それを行えば死刑にする」ということで、9世紀の頃には法律で処罰されるほどこのようなことが行われていた、ということなのでしょうか。
魔女狩り隆盛のきっかけとなった書物
「魔女狩り」や「魔女裁判」がヨーロッパで盛んになるのは、近年の研究では中世末期の15世紀から近代初期の18世紀にかけてのことだそうですが、中世初期のサリカ法典の時代には、勝手に吸血魔女の私刑を行うのは禁じられていたというわけです。
しかし15世紀に「魔女に与える鉄槌」(1486年)という論文が、ドミニコ会士で異端審問官のハインリヒ・クラメールという人によって書かれ出版されます。この書物は、魔女の存在を信じない人びとに対して反論し、魔女の特徴や能力と悪行、その発見の手順や証明方法を論じたものでした。序文には、ときの教皇インノケンティウス8世の回勅(ローマ教皇から司教に宛てて書かれた公文書)が引用されており、これがこの書物と魔女狩りのお墨付きを教皇からもらったかのような印象を与えましたが、じつはクラメールの審問官としての役割を認めただけのものでした。
しかし、教皇の回勅を記載したこの「魔女に与える鉄槌」によって、魔女狩りと魔女裁判の嵐が始まるきっかけになったのだとされています。
ペスト大流行と魔女や吸血鬼の時代
じつは、このひとつ前の14世紀にヨーロッパではペストが大流行しています。中国大陸で発生したペストは人口を半減させるほどの猛威を振るい、ユーラシア大陸を横断して中央アジアからイタリアのシチリア島に上陸します。これは、アジアから輸入した毛皮についていたノミが媒介となったのだと言われています。
やがてイタリア北部の住民を全滅させて北上し、3回の大流行と多くの小流行を繰り返しながらヨーロッパ全域に広がって、巨大な社会不安を引き起こしました。「魔女に与える鉄槌」から始まる魔女狩りや魔女裁判は、ようやくこのペスト大流行が終息した後に盛んになったわけです。
つまり、ヨーロッパのあちらこちらの町や村で人びとがペストに感染し、多くの人が死にました。ペストに対抗するために感染者を隔離し、ときには生きたまま埋葬したこともあったと言われています。この感染者が墓から抜け出たりすることもあり、死者から蘇る吸血鬼の伝説が新たに生まれたりもしました。
中世末に魔女や吸血鬼がヨーロッパでクローズアップされ、あらためて怖れられるのは、こういう時代背景が要因でもあったのです。