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アイザック・ニュートンが錬金術に興味を持った経緯とは?


 
17世紀中ごろ、イングランドの片田舎で誕生したアイザック・ニュートン(アイザックという名前は、旧約聖書で描かれている太祖のひとりである「イサク」に由来している、との伝承があります)は、親類の勧めもあって、12歳の時に地元グランサムのグラマースクールに進学します。

ここでその才能を開花させたニュートンは、グラマースクールを首席で卒業し、学者としてのキャリアを実質的にスタートさせています。

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ケンブリッジ大学への進学

ニュートンの実父はニュートン誕生に三か月前に亡くなっています。また、グラマースクール在学中の14歳のときに実母の再婚相手を亡くしていますので、ニュートンは思春期が到来する前に、父親および父親がわりの人物を失っていることになります。

しかし、学業において優秀な成績を収めることができていたため、この時点から自分自身に自信を持つことができ、のちの人格形成にも影響を及ぼしていたことが推察されます。

養父が亡くなった時点で実母はニュートンに農園経営を継がせることを考えていたようなのですが、彼自身は農作業には興味を示さず、もっぱら化学書や水車づくりなどに没頭していました。そのため、実母は学校での勉強を継続させることにして、1661年には、現在も存続しているイングランドの伝統校であるケンブリッジ大学に進学させています。

 

大学で錬金術のベースとなる思想を築く

中世ヨーロッパ当時、学問の方式のベースとしては「スコラ哲学(またはスコラ学)」が主流でした。スコラ学とは、キリスト教神学者や哲学者によって、当時既に確立されていた伝統的な手法であり、その中には現代では完全に覆されている学説(代表的な例をあげると「天動説」があります)も含まれていました。

しかしニュートンはスコラ学よりも、地動説を唱えていたガリレオ・ガリレイやニコラウス・コペルニクス、天体運行の法則のひとつである「ケプラーの法則」の提唱者であるヨハネス・ケプラーなどの自然哲学者の考え方のほうに傾倒していきます。

当時のスコラ学は半ば絶対的な存在であったことから、ニュートンの趣向は当時としては少数派だったことが推測されますが、大学でのニュートンの師となった、数学者であるアイザック・バローは、ニュートンの趣向や学術的才能を高く評価し、彼への惜しみない支援を実施しています。

ニュートンの識者としての才能は、実はこの時期にもっとも開花している、といわれています。環境や支援者に恵まれたことが、のちのニュートンの功績や、ひいては錬金術思想のベースとなる出来事となっていくのです。

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カテゴリ: その他

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