錬金術師パラケルススが異端児扱いされた理由
中世ヨーロッパの時代、医師、軍医として、ヨーロッパを放浪していたというパラケルススは、当時主流であったスコラ哲学に反し、錬金術的な独自の思想を次第に積み上げていきます。
周囲との軋轢はあまりにも大きく、在籍していた大学から追放されたり、訪れる土地からも放逐されたりを繰り返しています。彼の放浪の背景には、当時の人々の思想的な反発が大きく影を落としていた、といえます。
誇大妄想狂を意味するボンバストゥス
パラケルススの本名は、フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムという長いものですが、このうちに「ボンバストゥス」については、今では「誇大妄想狂」を意味しています。このことからも、当時のパラケルススが、いかに世間一般の人々から異端視されていたかがうかがえます。
「魔術師」のモデルとなったパラケルスス
また、当時まで医学的な薬の原料の主流は植物であったのですが、錬金術に関連して、鉱物や化合物を原料とする考え方を導入したことも、世間の反発を集める原因となった、といいます。1500年もの間、植物薬が主流だったところに異説を唱えたわけですから、彼の主張はほぼすべて論争の対象となった、といっても過言ではありませんでした。
さらに協調や修練を基調としたスコラ哲学に反して、あらゆる事象に対して議論しなおすことに挑んでいたことも、パラケルススが孤立する要因になった、と考えられます。
錬金術を駆使して、有名な「賢者の石(不老不死のもととなる物質)」や「ホムンクルス(人造人間)」を作りだしたというパラケルススは、ついには「悪魔使い」とのレッテルも貼られることになりました。このため、今も伝承されているタロットカードの「魔術師」のモデルである、ともいわれています。
パラケルススの最後
パラケルススの最後は、1541年に訪れます。オーストリア中北部のザルツブルクに滞在している時で、満47歳でした。死因としては、病死説や事故死説(居酒屋でけんかをして殺された、というものです)、暗殺説などが存在していますが、真相は判明していません。
暗殺説は、19世紀初頭に、パラケルススの遺体とされるものが発掘された際に、頭蓋骨の後頭部に外傷がみられたことが根拠になっています。しかし、「この外傷はくる病によるもの」という分析結果も残されており、諸説にもバリエーションがあって、パラケルススの死には今も非常に謎が多いのが実情です。