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不老不死の八百比丘尼はいつ頃の人だったのか??

八百比丘尼

人魚の肉を食べて不老不死となった女性「八百比丘尼(やおびくに)」は、いったいいつ頃の人だったのでしょうか?
八百比丘尼が人々に知られる存在となったのは、鎌倉時代から室町時代にかけてだと考えられています。日本の民俗学の創始者である柳田國男は「山島民譚集二」という著作のなかで、この八百比丘尼が生まれた時期を推定していますのでご紹介しましょう。

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京の都に現れた八百比丘尼

柳田國男は、室町時代に刊行された「臥雲日件録」「唐橋綱光卿記」「中原康富記」という、3つの日記の記述を根拠として考察しています。「臥雲日件録」は臨済宗相国寺派の大本山である相国寺の瑞渓周鳳が著した1446年から1473年までの日記で、「唐橋綱光卿記」は貴族である唐橋綱光の日記、また「中原康富記」は外記局という朝廷で天皇に上げる文書を作成し儀式などを司る部署の役人だった中原康富の日記です。

 
これらの日記には、八百比丘尼が京の都に現れたことが記録されていて、それは1449年(文安6年)の夏のことだったと言います。臥雲日件録には7月26日に800歳の尼が若州(若狭国)から京に来て、都の人々は争って見に行ったが門戸が固く閉ざされていて簡単には見ることができなかった。そこで人々は、お金を出して門の中に入れてもらったということが記されています。

 
また唐橋綱光卿記には、6月8日に800歳の白比丘尼(八百比丘尼の別名)が御所に来たという記述があり、中原康富記では、若狭国から200歳余りの白比丘尼が都に来て、やはり見るにはお金が必要だったことが記されています。なぜ八百比丘尼に会う(見る)のにお金が必要だったのかはまた考えるとして、柳田國男はこれらの記述から八百比丘尼が生まれた時期を推理しました。

 

 

幾多の時代と動乱を見て来た八百比丘尼

中原康富記の200歳余りという記述を、柳田國男は異聞(普通に言われているものとは違う話)として800歳説を採用し、そこから八百比丘尼を「大化から大同の中間に生まれた人」と推定しています。

 
日本の年号の「大化」は645年から650年、「大同」は806年から810年のことです。八百比丘尼が京の都に現れたとする1449年は、戦国時代に続く戦乱の始まりである応仁の乱(1467年から1477年)よりも20年ほど前。東山文化を築く、室町幕府8代将軍・足利義政が将軍となった年でした。その年から800年前ですと西暦649年ですから大化の時代、中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏を滅ぼした「乙巳の変(いっしのへん)」の後、飛鳥の豪族中心から天皇中心の政治へと移り変わったとされる「大化の改新(646年)」の直後の時代ということになります。

 
つまり、柳田國男の説で言うならば八百比丘尼は、飛鳥・奈良時代から平安時代、鎌倉時代を経て南北朝時代、室町時代と多くの戦乱と社会の変化を見てきたことになるのです。

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