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超人陰陽師・安倍晴明の不思議エピソード1:大雨を降らす

安倍晴明

陰陽師・安倍晴明の超人ぶりを伝えるものとして、いくつかの不思議エピソードが伝承されています。それを伺い知ることができるのは「今昔物語集」や「古今著聞集」「宇治拾遺物語」といった、後の時代に書かれた物語や説話が有名ですが、晴明が活躍していたときと同じ時代に記された日記などのなかからも知ることができます。

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平安時代最大の権力者の日記に記された、大雨を降らす安倍晴明

安倍晴明が活躍した時代の最大の権力者といえば、摂政太政大臣の「藤原道長」でした。
藤原道長は966年の生まれで晴明よりはだいぶ年下になりますが、20歳代前半には藤原氏の氏の長者となり朝廷の中枢で実力者となります。この藤原道長が著したものに「御堂関白記」という日記があって、どれも短い記述ですが11回ほど安倍晴明が登場するそうです。

 
その寛弘元年(1004年)7月14日の記事。晴明はもう最晩年で翌年の1005年に84歳で亡くなったという説もありますが、こんなエピソードを藤原道長は記録しています。

「この日は一日中曇りで、時折小雨が降った。夜には大雨となり、左近衛中将兼蔵人頭の藤原実成が言うには、安倍晴明が五龍祭(青、赤、白、黒、黄の五大龍王を祀る陰陽道の祭祀)を行うと反応があり、お供え物を早く供えなさいと晴明が言うのでその通りにすると、雷鳴が小さくなった、ということだった」

つまり大雨となったのは安倍晴明が「五龍祭」という祭祀を行い、龍王が雷鳴とともに降らせたからで、龍王に供え物をすると雷鳴は小さくなり落ち着いたということです。これは、最晩年においても晴明の呪術がいかに強力だったかを記したエピソードです。

 

 

一流の学識者が記録した安倍晴明の呪力

同じ時代に、右大臣の「藤原実資」という貴族がいました。藤原実資は藤原北家の嫡流・小野宮流を継いだ人で、摂関家の主導権は分家である藤原道長の九条流に奪われてしまいましたが、有職故実に通じたこの時代随一の学識者でもありました。
この藤原実資が遺した日記に「少右記」があり、この日記には安倍晴明が16回登場するそうです。

 
晴明がそろそろ陰陽寮の天文博士を退いて、なおも陰陽道第一者として最高の陰陽師とされていた頃の正暦4年(993年)2月3日の記事には、こんなエピソードが記録されています。

「藤原実資の屋敷に安倍晴明が訪れて、話の中で位が昇進したことに触れた。それは何故かと尋ねると、一条天皇がにわかに病気になられたので、宮中からの指示があり、身を清めて天皇の病が治まるようにと奉仕すると、すぐにその効果が表れ天皇が回復したので、位階を一つあげてもらったのだということだった」

このとき晴明は、正五位上の位階になっています。このあとの長徳年間(995年から998年)の陰陽頭(陰陽寮の長官)である秦茂忠という人の位階が従五位下ですから、天文博士を引退した晴明は長官よりも3段階も位階が高かったわけです。

 
また晴明はこのときには、一条天皇直属の陰陽師である「蔵人所陰陽師」になっていたようで、天皇の病には真っ先に呼ばれ、その強力な呪力によってたちどころに病を治した、ということなのでしょう。

 
道長の日記にしても実資のものにしても作られた話ではなく、記録としては信憑性のあるものですから、安倍晴明が強いチカラを持った陰陽師として貴族社会のなかで実際に認知されていたことがわかります。

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