> >

陰陽師の歴史~陰陽道の礎を築いた天武天皇と陰陽寮

587133
 
古代より歴史の表舞台には立たず、どちらかと言えば陰に隠れた存在であった「陰陽師(おんみょうじ)」。その代名詞と言えば「安倍晴明(あべのせいめい)」ですが、晴明について探って行く前に陰陽師とはどんな存在だったのか、どんなことをしていたのかを簡単にご紹介したいと思います。

安倍晴明が登場するのは平安時代の中頃ですが、じつは陰陽師という存在が現れるのは、それよりも300年ほども前の飛鳥時代(7世紀後半)のことでした。

スポンサードリンク


 

陰陽師の元祖、魔術王・天武天皇

古墳時代の終わりから飛鳥時代に至る6世紀に、中国大陸から「陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)」という思想が伝来して来ます。陰陽五行思想とは、宇宙のすべてを「陰」と「陽」の二元論で説く「陰陽思想」と、万物を「木」「火」「土」「金」「水」の5つ元素で説く「五行思想」の2つが合体した自然哲学で、仏教とともに日本の古代人に大きな影響を与えました。聖徳太子が制定した「十七条憲法」や「冠位十二階」にも、陰陽五行思想が大きく影響を及ぼしています。

この陰陽五行思想は宇宙の森羅万象を説くものですから、「暦(こよみ)」の制定や星の運行などの「天文」から人々の行動や政治の吉凶を判断するものとして、大変重視されて行きます。672年に起こった日本の古代最大の内乱と言われる「壬申の乱(じんしんのらん)」で勝利者となった「大海人皇子(おおあまのおうじ)」、後の「天武天皇」は陰陽五行思想に造詣が深く、天文や「奇門遁甲(きもんとんこう)」という占術の達人だったのだそうです。

壬申の乱に勝利し天皇となった天武天皇は、676年に「陰陽寮(おんみょうりょう)」という役所を設け、陰陽五行思想を正式に朝廷のなかに位置づけます。このように天武天皇は後の陰陽師の礎を築いた天皇で、古代においては魔術王とも言える存在だったのかも知れません。

 

陰陽寮は古代の秘密機関だった!?

718年撰定の「養老律令」という法律では、陰陽寮に「天文博士」「陰陽博士」「暦博士」「漏刻博士」の4博士と陰陽師が「方技(ほうぎ)」として設置されます。方技とは技術系の役人、現在で言う技官ということで、また漏刻博士の「漏刻(ろうこく)」とは古代の水時計のこと。つまり漏刻博士とは時間を司る博士のことです。

このように陰陽寮には天文・陰陽・暦・時間のそれぞれの専門家、技術者が配置されたのです。それぞれの博士の定員は1名(漏刻博士は2名)。陰陽師は6名が置かれました。陰陽寮の運営は、「陰陽頭」を長官としてその下に実務を行う文官が配属され、また各博士のもとでそれぞれの専門分野を学ぶ「学生」と博士を目指す「得業生」も所属していました。

この陰陽寮が扱っていたものを総合して後に「陰陽道(おんみょうどう)」と言うわけですが、その内容を部外者に教えたり漏らしたりすることは厳しく禁じられ、天文の観測や時刻を測る器具、道具や装置、あるいは文献なども外部へ持ち出すことも禁じられました。陰陽寮が行っていることは朝廷が独占して秘密にされ、いわば古代日本の秘密機関であったということでしょうか。

それでは、それはいったい何故なのでしょう? その理由や陰陽道の内容については、また別の記事でご紹介することにします。

このエントリーをはてなブックマークに追加


スポンサードリンク
スポンサードリンク

Comments are closed.