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栄光のさなかの死…アレキサンダー大王の死因を考察する

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父であるピリッポス2世の跡を継いでからおよそ10年余り、栄光の進撃の最中である紀元前323年の6月に、突如亡くなってしまったアレキサンダー大王ですが、現在もその墓が発見されず、特定もなされていないことからもわかるとおり、死因はおろか、死に至る背景についての事実は、未だに解き明かされていません。いくつもささやかれている死因について、状況証拠などを積み上げて、真相に迫っていきます。

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10日間程度苦しんで亡くなった?

アレキサンダー大王の死をめぐる有名なエピソードのひとつに、「ある祝宴の途中で倒れ、その後10日間あまり(12日間という説もあります)寝込んだ末に亡くなった」、というものがあります。またこの10日間について、「熱にうなされていた」、「最後のほうは歩行も困難な状態に陥っていた」、との伝説も残されています。

このエピソードが事実であったとすると、死因として浮かび上がってくるのが「毒草による死亡説」です。もしヒ素やその他の劇薬による死であれば、10日間余りという期間、生き続けることは困難であり、紀元前という時代背景と死に至るまでの期間を加味すれば、「毒草による死亡説」はあながち間違ってはいない、と考えられます。

 

ホワイト・ヘレボルスという植物による毒死?

当時ギリシアを含むヨーロッパ全土で比較的容易に入手できる毒草のひとつに、ホワイト・ヘレボルスという植物がありました。この植物の毒性の特性として、「少しずつ体力が衰える」、「激しい腹痛を伴う」ことなどがあげられる、といいます。

アレキサンダー大王の死のエピソードには、「ワインを飲んだ後に(激しい腹痛とみられる症状で)のたうち回って苦しんだ」というものもありますので、毒草による死亡説、ひいてはその植物がホワイト・ヘレボルスであったとしても、おかしくはないのではないか、と考えられます。この説はニュージーランドはオタゴ大学の学者であるレオ・シェップ氏による仮説なのですが、状況証拠を鑑みると、かなりの確度で真相に迫っているものである、といえるのではないでしょうか。

また一方で、アレキサンダー大王には「人種融合の野望」もあったといい、制圧した国々とギリシア人の結婚を推奨し、政策として推し進めていたという背景もあり、「毒草による死亡説」と並んで、「反対派による陰謀説」も根強く残っています。真相の解明には、アレキサンダー大王の墓や遺体の発見、さらにDNA鑑定などによる科学的な裏付けがなされることに期待したいところです。

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カテゴリ: その他

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