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弁慶とダイダラボッチ。伝説のルーツは同じだった?

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「武蔵坊弁慶」と言えば平安時代末期、京の五条の橋の上での出会いから源義経の家来として戦い、義経の最期まで仕えた実在の人物として知られています。物語にも怪力無双の荒法師として描かれる弁慶には、全国各地にその痕跡を遺す不思議な伝説が多くあります。

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そのなかでも「弁慶の足跡」や「弁慶石」と呼ばれるものは、巨人で怪力だったとされる弁慶の痕跡を伝えているのですが、それらから弁慶と「ダイダラボッチ」を同じものと考える伝承も遺されて来ました。

 

弁慶の足跡

巨人・弁慶の痕跡は、義経と弁慶にゆかりのあるとされる地に遺されています。

例えば弁慶が義経と出会ったあと、最後に戦い義経に負けた地と言われる京都の清水寺には「弁慶の足跡」があります。清水寺朝倉堂の横に据え置かれているそれは、岩に両足の大きな足跡がついていて、そのサイズは50cmほど。清水寺にはそのほかにも長さ2.6m重さ96kgの大錫杖とそれより小ぶりの小錫杖、ひとつ12kgの鉄下駄などがあって、巨人で怪力と言われる弁慶を伺わせるものです。

とは言っても、足のサイズ150mのダイダラボッチとは比較にならないのですが。

奈良県大和郡山市の郡山城にも「弁慶の足跡」があります。こちらは城の桜御門跡の門台の石垣にあり、「弁慶定形石」と呼ばれるものです。足のサイズは30cmぐらいで、それほど巨大なものではありません。

義経の軍が平家軍を追ったときの進路にあたる兵庫県三木市にも「弁慶の足跡」と呼ばれるものがあり、市内を流れる美嚢川(みのうがわ)に近い田んぼの畦道の傍らにあります。立てられた石に遺された足のサイズは、こちらも30cmほどです。

 

巨石を持ち上げた弁慶

義経が奥州の平泉に逃れる際に辿った北陸の地にも、巨人・弁慶の痕跡が遺っています。「弁慶の足跡」も、福井県勝山市、大野市、石川県羽咋市、七尾市、富山県氷見市など各地にあるのですが、弁慶が担いだり投げ飛ばしたとされる「弁慶石」というものもあります。

そのうちのひとつ、石川県津幡町の菩提寺という大きなお寺の跡にある「ベンケイ石」と呼ばれるものは、高さ7m周囲が22mもある巨石です。この石はむかし弁慶が担ぎ上げて、その重さに鼻血を出したと伝えられているものだそうです。

東北の岩手県遠野市には「続石」と呼ばれる巨石の遺構があり、幅7m奥行5m厚さ2mの「笠石」という巨石が、「泣石」という石の横に少し離れてある別の石の上に載っています。この石のことは柳田國男の『遠野物語拾遺』の11話にも出てくるのですが、それはこんなお話です。

これはむかし弁慶がつくったもので、はじめは泣石の上に笠石を載せたのですが、泣石が「自分は位の高い石なのに、別の石が上に載せられるのは残念だ」と一晩中泣き明かしたそうです。それならと弁慶は、今の台になっている石の上に載せ替えたのだということです。

 

ダイダラボッチから弁慶へ

山を造ったり持ち運んだりしたダイダラボッチからは、だいぶスケールは小さくなったのですが、それでも岩に足跡を遺したり巨石を持ち上げたりと、巨人とされた弁慶の伝説にはダイダラボッチと共通するものがあります。

ダイダラボッチは遥か古代、弁慶はそれより下った平安時代末期の歴史の時代ですが、昔の人はそこに共通するものを感じたのでしょうか。遠野の「続石」は、一説には古代からあるドルメン(世界各地にある古代の巨石遺構)とも言われ、もとはダイダラボッチが造ったものが、やがてより実在性のある弁慶が造ったものとされて行ったのかも知れません。

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カテゴリ: その他

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