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巨人ダイダラボッチはいつからいた?現存する日本最古の記録とは

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古代の巨人「ダイダラボッチ」の伝承は、中部から東日本を中心に日本各地にあります。それらはほとんど口承の民話や伝説なのですが、それではいつの頃から伝わっているのでしょうか。

ダイダラボッチについて書かれた最も古い記述とされるのが、『常陸国風土記』と『播磨国風土記』に記されたもののようです。

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「風土記」というのは、日本各地の歴史や文化、風土、地名の由来やその地に伝わる伝承などを、律令制度のなかで各国(地方)ごとに地誌として記録し朝廷に納めたもので、その提出命令は奈良時代初期の713年に出されています。

残念ながら現在まで遺っているものは少ないのですが、常陸国風土記と播磨国風土記は写本によって現存するとても貴重な古代の記録となっています。常陸国は現在の茨城県で、播磨国は兵庫県の南西部です。
さてこの2つの風土記のなかにあるダイダラボッチの記述は、このようなお話です。

 

古代の貝塚をつくったダイダラボッチ

常陸国風土記の那珂郡(なかのこおり)の条にある巨人の話。

那珂郡に大櫛という岡があり、むかしとても背の高い巨人がいました。巨人は岡の上に立ったまま手を伸ばし、海辺をくじって(ほじくって)大蛤を採り食べていました。その貝殻が積もって岡となり、大きくくじったことから大櫛の岡という名がついたということです。

巨人の足跡は長さが40歩以上、幅が20歩以上で、小便の跡の穴は直径が20歩以上もあったのだそうです。「歩(ぶ)」とは尺貫法の長さや面積の単位で、長さでは6尺が1歩、およそ1.8mです。ですから40歩以上というと、足のサイズは72m以上もあったということです。

巨人が棲んでいた大櫛の岡とは、縄文時代前期(約5,500年から7,000年前)に形成された「大串貝塚」(茨城県水戸市)のことで、現在は「大串貝塚ふれあい公園」になっています。もちろん古代と現在では海岸線の位置は異なると思いますが、ここから現在の海岸までは4kmほど離れています。

大串貝塚もダイダラボッチと同様に日本最古の貝塚の記録ということになりますが、もしこの貝塚が巨人の食べた貝でできたものだとしたら、ダイダラボッチは遥か大昔の存在ということになりますね。ちなみに大串貝塚ふれあい公園には、高さ15mのダイダラボウ(ダイダラボッチ)の像が建てられています。

 

あまりにも背が高いので、屈んで歩いたダイダラボッチ

播磨国風土記のダイダラボッチの記述は、託賀郡(たかのこおり)の条にあります。

むかし託賀郡(兵庫県多可郡)に「大人(おおひと=巨人)」がいて、とても背が高いのでいつも屈んで歩いていました。南の海から北の海に至り東を巡ってこの地にやってくると、「他の土地は天が低いのでずっと屈んで歩いていたが、この地は天が高くて真っ直ぐ立って歩ける」と言ったのだそうです。そこからこの地を託賀(たか=高)郡といい、巨人の足跡が多くの沼になったということです。

どうして他の土地は天が低くて、託賀郡は天が高いのかはよくわかりませんが、こちらも常陸国の大櫛の岡と同じようにダイダラボッチが地名の由来になっています。ただこの巨人はどこからかやってきたようです。古代の日本では、山野を移動する巨人が全国各地で見られたのでしょうか。

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カテゴリ: その他

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