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御船千鶴子と長尾郁子:念写の概念を生んだ「透視実験」

水晶
 
1910年(明治43年)に東京帝国大学助教授であった福来友吉博士主導でおこなわれた「透視実験」は、当時日本全土に及ぶ大きな論争を呼び、結果的に実験の当事者であった御船千鶴子氏は、1911年に重クロム酸カリによる服毒自殺を遂げ、24年の短い人生を終えてしまいます。

彼女が自殺に至った経緯には、もうひとつの透視実験である「長尾郁子氏の透視実験」がありました。この実験こそが、こんにち一般的に浸透している「念写」というキーワードを生むことになりました。

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長尾郁子の透視実験

御船千鶴子氏の透視実験が、新聞や学会発表などで大きく取り上げられた結果、福来博士のもとには、自称「超能力者(実験の評判を聞いて、自分にも透視能力があると申告してきた人々)」からの連絡が数多く寄せられました。当然これらは玉石混合であったものの、当時の讃岐実業新聞(現在の四国新聞)が報道した長尾郁子氏の事例は、福来博士の興味をひくこととなりました。

博士は、御船千鶴子氏の透視実験のときと同じく、立会人として京都帝国大学医学博士の今村新吉氏を誘い、実験をおこないました。彼女の実験の際には、写真乾板(つまり現在のフィルム)を使っておこなわれました。未現像の写真乾板を彼女に示して透視をしてもらい、その後現像をして是非を確認する、という手法を用いたのですが、実験は成功し、この中で福来博士は、念写の可能性に注目するようになったのです。

 

念写の概念は学会でも議論に

福来博士は、彼女との実験を重ねていく中で「念じることで写真乾板に像を映し出す」能力の存在を信じるようになり、「念写」として心理学会に発表します。当時念写に相当する英語はなく、「Nengraphy(念+フォトグラフィーの意味、後にThoughtographyやProjected thermographyと改められます)」と命名されました。

念写は学会でも議論を呼び、京都帝国大学の学生である三浦恒助氏は、「念写は精神的な作用ではなく、なんらかの物理的作用によって引き起こされる」との見解を示し、心理学会と物理学会の間での論争にまで発展したようです。逆に言えば、当時念写という概念は、社会的にも大きな注目を集める関心ごとであった、といえそうです。

念写の概念の社会的浸透、長尾郁子氏の透視実験、それに対する世間の論調は、透視の先駆者である御船千鶴子氏にも大きな影響を与え、その死のトリガーになってしまうのです。

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カテゴリ: その他

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