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サトラップの反乱~ハリカルナッソスのマウソロス霊廟に眠るマウソロス

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現在のトルコはボドルム半島にあるハリカルナッソスのマウソロス霊廟は、紀元前350年頃の当地の統治者であるマウソロス王と、アルテミシア王妃を安置するために作られた霊廟(=巨大な墓)なのですが、ペルシアの州知事であったマウソロスは、その父から受け継いだペルシアの関連国であるカリア国(ハリカルナッソスを含んでいます)において、絶大な権力を持っていました。当時、小アジアの各地域で、大ペルシア帝国に反旗を翻す、といった機運が高まっていました。その世相や雰囲気は、当時の「サトラップの反乱」という表現に集約されていますが、マウソロスはその中心人物のひとりでもありました。

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サトラップは現在でいう州知事

サトラップとは、アケメネス朝ペルシア王国の政治体制を受け継いだ諸国に適用されていた州制度において、州の行政官を指す呼称でした(現在でも、超大国や、強大な権力者に従属する立場、または大きな影響を受けている指導者や行政者のことを、サトラップと称することがあります)。アケメネス朝ペルシア王国では、歴史的にはキュロス2世の時代、紀元前530年頃には、制度としてほぼ浸透していました。

 

中央の権威と反比例して力をつけたサトラップ

アケメネス朝ペルシア王国は、首都ペルセポリスを中心に、中央集権的な体制を築こうとしていたため、各地で力をつけるサトラップをけん制する意味合いの監察官(「王の目」と呼ばれていました)なども設置していましたが、日本における戦国時代のように、諸地方において、独立の機会をうかがうような存在のサトラップも、多く出現してきていました。またサトラップは、中央政府に任せられた地方についての徴税権を一手に担っていたこともあり、各地方において、経済的にも実質的にも相当な影響力を行使できた、といえそうです。中央側では、力を持ちすぎたサトラップ管区を常に監視し、時には分割するなどして、サトラップの持つ権力の縮小化を図ったりしていました。

 

マウソロスの時代に起こったサトラップの反乱

紀元前350年頃には、管区の軍司令官も設置されるようになり、サトラップの権力増大や、反中央的な空気が非常に強くなって、サトラップの大規模な反乱はしばしば起こっていたようです。このころのペルシャ王国の州である、カリア国の王であったのがマウソロスで、その権力の大きさは、世界の七不思議として今も伝えられている、巨大かつ壮麗なハリカルナッソスのマウソロス霊廟の存在感からも明らかです。この傾向は長く続き、そのため中央政府は、各地の反乱の鎮圧に明け暮れていたようです。小アジアやシリア地域の大規模な反乱は、紀元前330年頃までペルシャ王国を治めていた、アルタクセルクセス3世の時代を最後に鎮圧された、とのことです。

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カテゴリ: その他

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