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マウソロス霊廟があった古代都市ハリカルナッソスの歴史

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紀元前2世紀頃の識者として伝えられている「ビザンチウムのフィロン」が提唱したといわれる世界の七不思議のひとつ、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟は、他の七不思議と同様に、当時のギリシャやペルシャの影響下にあった、地中海周辺の代表的な建造物のひとつです。ここでは、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟が建設された古代都市、ハリカルナッソスの歴史をご紹介します。

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アルゲアス朝マケドニアとアケメネス朝ペルシアの戦場

当時からハリカルナッソスのマウソロス霊廟があることで知られていたハリカルナッソスは、紀元前350年頃に建設されたとされ、マウソロスは、アケメネス朝ペルシアから州知事として遣わされていた人物でした。ハリカルナッソスは、有名なアレクサンドロス3世(日本ではアレキサンダー大王の名称で知られています。これらは通称であり、本当の名前はバシレウスであった、とされています)が、アルゲアス朝マケドニア王国の王として、アケメネス朝ペルシアと戦った(紀元前330年頃)場所でもあります。

 

起源はドーリア人の殖民都市

ハリカルナッソス建設の起源には諸説ありますが、もともとは、古代ギリシャを構成していた集団のひとつである、ドーリア人の殖民都市として作られた、という説が有力です。この説の根拠として、当時この地で流通していた硬貨の図柄があげられます。硬貨には、ギリシャ神話に登場する、蛇女(頭髪が蛇であることから蛇女といわれています)ゴルゴーン3姉妹のひとり、メデューサや、女神であるアテーナー(別名アテナ、アテネ)、海の神ポセイドンなどが描かれています。また、当時のドーリア人はヘクサポリス(=6都市連合)を形成しており、ハリカルナッソスはそのひとつでした(他に、コス、クニドス、リンドス、カメイロス、イアリソスが入っています)。

 

勝利したマケドニア側から遣わされたマウソロス一家

先に述べた硬貨の図柄などの根拠から、母体となった都市は、ドーリア人のトロイゼーンやアルゴスである、と推測されます。紀元前334年、マケドニアとペルシアは激戦を繰り広げ、ハリカルナッソスは激戦の痛手をこうむった状態ではあったものの、勝利したマケドニアから遣わされたマウソロス父子によって再建が図られます。再建の道中で、エジプトのヘレニズム国家プトレマイオス朝の初代ファラオである、プトレマイオス1世がハリカルナッソスにギュムナシオン(公共の協議訓練施設。オリンピックを見越していた、と思われます)を建てたり、それに応えた市民がポルチコ(建造物の玄関を装飾する、当時の様式を持った柱廊)を建てたりして、都市の再建が進んでいきました。その後、この地の統治者であるマウソロスとその妻アルテミシアが建設したのが、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟であったのです。

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カテゴリ: その他

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