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妖怪「ひょうすべ」と河童の起源(2)カッパは木製の人形だった説

カッパ

 

室町時代中期の「下学集(かがくしゅう)」という国語辞書に初めて登場し、その後1603年発行の「日葡辞書(にちほじしょ)」で記述され、そして江戸時代の中頃の「和漢三才図絵」でようやく姿が描かれた河童。とても新しい妖怪のようにも思われるのですが、果たしてその起源はどこにあるのでしょうか。

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河童伝説の起源は全国いろいろ

日本の妖怪では最も広い範囲、まさに全国各地にその伝承のある河童は、その起源もひとつだけではないようです。
そのうちのひとつ、九州地方に伝わる「ひょうすべ」という河童の一種または仲間とされる妖怪は、もとの名は「兵主部(ひょうすべ)」であり、中国からやって来たと考えられる「兵主神(ひょうずのかみ)」という水神・戦いの神のこと、またはその眷属(けんぞく=その神の配下または関係するモノ・動物)と言われています。

 
兵主部=河童は、菅原道真が九州・太宰府に左遷されたと河童を助けたという伝承もあり、その時代は平安時代まで遡ることになりました。

 

 

兵主部は木製の人形に生命を吹き込んだもの

兵主部=河童と菅原道真の伝承が遺されている佐賀県武雄市の潮見神社には、それとは別に近くを流れる六角川の支流・潮見川に棲むという、河童の起源についての伝承もあります。

 
それによると潮見川の河童は、元々は京の都に棲んでいたのですが、橘氏の一族で平安時代末期から鎌倉時代の武将である橘公業(たちばなのきみのり)が伊予の国(愛媛県)から移って来たときに、橘氏の配下である兵主部=河童も一緒に移住して来たものなのだそうです。

 

なぜ河童は橋氏の配下だったのか?

それではなぜ兵主部=河童は、橘氏の配下だったのでしょうか?
奈良時代に、もとは皇族で聖武天皇から橘の姓を賜って臣籍降下した橘諸兄(たちばなもろえ)の孫に、兵部太輔であった橘島田麻呂(たちばなのしまだまろ)という人がいます。

 
称徳天皇のときに、常陸の国(茨城県)の鹿島神宮の祭神の武甕槌神(たけみかつちのかみ)を奈良に勧請して春日大社を創建した際、橘島田麻呂は難事業を成し遂げるために大工の棟梁に命じて99体の木製の人形を作らせ、それに生命を与えて働かせて無事に春日大社ができたのだそうです。工事が終わると、橘島田麻呂は働かせた人形を川に流したのですが、その人形が河童になったのだとか。

 

 

橘氏の眷属になった兵主部

川に放たれて河童となった99体の人形は、あと1体で100匹の河童になるということで、人間の子供を誘拐しようと目論んだのだそうです。
しかしこのことを知った橘島田麻呂は、河童たちに「その誘拐をやめれば、お前たちを私の家来にしてやる」と命じました。河童たちは子供を攫うことをやめ、それ以降は兵主部として橘氏の家来、配下になったのだということです。
この河童の起源伝説からすると、河童の始まりは春日大社の創建が766年のことですから奈良時代となります。

 
ちなみに現在も鹿で有名な春日大社ですが、もとは鹿島神宮の祭神である武甕槌神を訪れた天照大神の使者・天迦久神(あめのかぐのかみ)が鹿の神霊であったとされていて、そこから鹿島神宮の神使いは鹿とされ、武甕槌神が奈良に勧請されるのと一緒にその鹿も移ってきたものなのだそうです。

 
武甕槌神は、中国から来た兵主神と同じく戦いの神です。
このときの天照大神からの使いとは、出雲の国譲りを説得してきてほしいというものでした。武神である武甕槌神は、兵主部=河童が戦いの神である兵主神の眷属という話に関連しそうですが、もうひとつ、河童は鹿の角が苦手という話にも鹿島神宮と春日大社の神使いが鹿だということが関係あるのかも知れません。

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