> >

【第10回】江戸時代にアンコールワットを訪れた日本人

アンコールワット

 

カンボジアの古代王朝時代である12世紀頃、アンコール王朝のヒンドゥー教寺院として作られたアンコールワットは、後に国教が仏教に改修されたこともあって、現在では仏教寺院にヒンドゥー教的な要素が混在した、神秘的な存在となり、その独自のユニーク性から、世界遺産にも登録されています。
アンコールワットが作られた後、アンコール王朝は15世紀頃に滅亡しますが、その後17世紀頃になって、何人かの日本人が、アンコールワットを訪れていたことを示す痕跡が残っています。

スポンサードリンク

 

 

痕跡は全部で14例

アンコールワットには、その文字から「日本人が書いたのではないか」と思われる墨書が、14例も残されています。
墨でアンコールワットの建物に文字を記すという行為は、厳密には「落書き」ともいえますので、現在では考えられないことですが、当時は今のように「文化財」という概念はなかったと思われ、本例のような日本人による落書き自体も、歴史遺産となっている、といえそうです。

 
墨書には、アンコールワットを訪れた日付や人数も記されており、渡航は慶長17年(1612年)、および寛永9年(1632年)の2回に渡っていることがわかっています。
また、「同行者9名」といった記載もあり、団体渡航であったことがうかがえます。
この時代は、朱印船貿易がさかんにおこなわれていた時代と一致するため、朱印船に乗って渡航していたと推測されます。

 

 

森本右近太夫一房という人物の書

なかでも、1632年にアンコールワットを訪れている、森本右近太夫一房という人物の墨書は、文章も長く、今でもわずかながら記載内容を確認できることで、非常に有名な墨書となっています。
この人物は、江戸時代前期の平戸藩の武士で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将、加藤清正の重臣である森本一久の次男として生まれています。

 
1632年のカンボジア渡航は、父の菩提を弔うことと、年老いた母の後生を祈念することを目的におこなわれたようで、平戸藩が当時、国際的な貿易港を擁していたことから、朱印船に乗って渡航することができた、と思われます。
墨書は、アンコールワット内の十字回廊という場所の柱に残されており、12行に渡る長文である、とのことです。

 

 

カンボジアは南天竺と呼ばれていた

当時の日本では、「カンボジアは南天竺である」と考えられていました。
渡航の一行は、アンコールワットについて、インドのコーサラ国の「祇園精舎」という建造物と考えて訪れたようです。

 
天竺という概念は、中国の西遊記にも登場する、仏教上の聖なる場所なのですが、日本がその後鎖国に入っていくこともあわせて考えると、カンボジアとインドは、区別はしていたものの、明確な位置関係までは把握できていなかったのではないか、と考えられます。
いずれにせよ、彼の残した墨書は、歴史的な意味においても非常に貴重なものである、といえそうです。

このエントリーをはてなブックマークに追加


スポンサードリンク
スポンサードリンク

カテゴリ: その他

Comments are closed.