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ファラオの呪い…ツタンカーメン王の墓発見がもたらしたもの

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古代エジプトの王達の墓が密集している、エジプトはルクソールの王家の谷で、第18代王朝の若き王、ツタンカーメンの墓が見つかったのは、1922年11月のことです。18世紀以降、長い間当地での発掘調査がおこなわれてきたのですが、発見者であるイギリス人考古学者ハワード・カーター氏や、そのスポンサーであったイギリス貴族関係者のはカーナヴォン卿(その名をジョージ・ハーバート氏といいます)の執念の賜物、ともいえますが、ツタンカーメンの墓の発見後、いくつかの不可解な事件が起こっています。

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ツタンカーメンの呪い

日本においても、お墓を粗末にしたり、死者に敬意をはらわないような行為をおこなった場合、「ばちがあたる、たたりがある」、といわれていますが、ツタンカーメン王の墓の発見の後、なんとも不可解な事件が続いています。発掘直後から、発掘に関わった人のうち何人かが急死した、というのです。このため、「ツタンカーメンの呪い」がささやかれるようになり、この説は拡大解釈されて、「ファラオ(古代エジプトの王の意味)の呪い」ともいわれるようになりました。

 

それはカナリアの死から始まった

呪いの最初の犠牲者は、ツタンカーメンの墓を発見した中心人物のひとり、ハワード・カーター氏が、本国からエジプトに持ち込んだカナリアでした。カナリアを見たことがない現地のエジプト人達は、「黄金の鳥」などと呼び、歓迎をもって受け入れていたようです。このカナリアを持ち込んだ直後に、ツタンカーメン王の墓を発見することになったため、このカナリアは「幸福の鳥」ともいえるのですが、墓の発見の直後に、現地のコブラという種類の蛇に飲まれて死んでしまいます。前述のように、縁起物としてカナリアをとらえていた現地の人々は、この事実をかなり怖れたようですが、この時点ではまだ「ツタンカーメンの呪い」とまでは話が拡大しませんでした。

 

敗血症によるスポンサーの死

ツタンカーメン王の墓の発見の半年後、もうひとりの中心人物であるカーナヴォン卿本人が、敗血症をわずらって死亡してしまいます。死の直接の原因は、発掘現場で蚊にさされたことがもとで伝染病にかかったことなのですが、最終的には敗血症で亡くなっています。公式に残っている「ツタンカーメンの呪い」に関する死亡記録は、実はこの2件だけのようです。にも関わらず、「ツタンカーメンの呪い」が、これほどまでに世界中のあらゆる人々の間に浸透していることは、なんらかのバイアスがかかっていることが考えられます。

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カテゴリ: その他

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