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歴史の空白・台与の時代~卑弥呼亡き後の邪馬台国

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魏志倭人伝の記述では、247年頃に女王卑弥呼が亡くなると、そのあとに男王を立てましたが国中が乱れたので、卑弥呼の一族の娘でまだ13歳の「壹與(台与)」という少女を女王として立てたところ、国内の乱れは収まったと言います。台与はその後も魏に使者を送りますが、魏志倭人伝はこの記述で終わっています。

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卑弥呼が亡くなる頃には「狗奴国(くなこく)」の男王と不仲になり、争っていたことが記されています。この狗奴国とは邪馬台国の南にあるとされる国で、その王の名前は「卑弥弓呼(ひみここ)」ですが、王の官として「狗古智卑狗(くこちひく)」という者が記されていて、この狗古智卑狗が実際の権力者ではないかと考えられています。また狗古智卑狗は、その名前の音から「菊池彦(きくちひこ)」であり、熊本県の菊池郡に関係のある人物ではないかという説もあります。

このように、邪馬台国の近くにも卑弥呼に従わない国もあり、周囲の国々をすべて統一していた王朝ではないことが伺われます。それでは卑弥呼が亡くなり、後を継いだ台与が女王となった後、邪馬台国はどうなったのでしょう。

 

空白の四世紀を埋めるもの

卑弥呼が亡くなった後の249年頃から、日本の歴史が明らかになってくる飛鳥時代が始まる592年までの間は、実は倭国や日本のことがはっきりとはわかっていません。特に邪馬台国の台与が魏のあとの晋に使節を送った266年から、倭国王が晋に朝貢した413年までの間、倭国は晋に使節を送っておらず中国の文献に倭国の記述が出て来ないので、この間は「空白の4世紀」と呼ばれています。

それはこの時期に朝鮮半島では、313年に北方の高句麗が南下して中国の統治下にあった楽浪郡と帯方郡を滅ぼし、346年には百済が建国、356年には新羅が建国して三国時代となり、激しい勢力争いとなっていたことが大きく関係しているようです。現在の中国吉林省集安市にある高句麗の第19代王の「好太王碑」に、倭がやって来て百済や新羅を従えたと解釈できる記述が刻まれているなど、369年頃から400年代の初め頃まで倭国を交えた大きな動乱があったとされているのです。

それではこの空白の4世紀を埋めるものはあるのでしょうか。

 

倭国と倭王のその後

晋王朝の時代の『晋書』や南北朝時代の『宋書』『南斉書』『梁書』には、「倭の五王」と呼ばれる倭国の「讃」「珍」「済」「興」「武」という5人の王が記されています。讃の413年から始まって武の502年まで、それぞれがその時の中国の王朝に使者を送り朝貢しているわけですが、これら5人の王を讃は履中天皇、武は雄略天皇といったように、大和朝廷の歴代の天皇に当てはめる説もあります。

しかし、南北朝時代のあとの隋の時代(581年から618年)の『隋書倭国伝』には、倭の五王から100年後の600年に、倭国の「阿毎(あめ/字名は多利思北孤)」という王が隋に使者を送ったという記述が出てきます。倭国の領地として「邪靡堆(やびと/やみぃと)に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」と記され、この阿毎王の倭国が魏志倭人伝の邪馬台国につながる国であるとしているのです。また阿蘇山があって火を噴いている(噴火している)という記述があるなど、九州を思わせる記述も記されています。

 

倭国と日本

この隋書に記された倭国の阿毎王(多利思北孤)は古事記や日本書紀には登場しませんから、はたしてここに書かれた「邪馬臺」が邪馬台国のことなのか、それとも大和朝廷のことなのかは実はよくわからないようです。
ただしその後の607年の使節は、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」と書き出された聖徳太子の国書を小野妹子が持って隋を訪れた「遣隋使」であり、日本書紀にも記されているものですので、大和朝廷のことに間違いないとされています。

また、その後の後晋(936年から946年)の歴史を書いた『旧唐書(くとうじょ)東夷伝』には、「倭国伝」と「日本伝」が並立していて、「日本は倭国の別種で、もともと小国であった日本が倭国を併合した」と記述されています。これが倭国と日本を明確に分けて書かれたものなのか、それとも倭国が日本という名称に国号を変えたために起こった混乱なのかは諸説があり、はっきりとはしていません。

邪馬台国と倭国、そして日本と、どのように古代の歴史がつながっていくのか、実はまだまだ多くの謎が残されているのです。

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