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礼儀正しき古代倭国の人々~魏志倭人伝の中の「邪馬台国」

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魏志倭人伝には朝鮮半島から邪馬台国までの道程や、中国の王朝である魏との外交の記述だけではなく、倭人がどのような人々で倭国の風俗がどのようなものなのかが書かれています。そこから、2世紀から3世紀の中国の目を通した古代の倭の国の様子を、伺い知ることができます。
今回は、魏志倭人伝に記された倭人と倭国の様子について、ご紹介することにしましょう。

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魏志倭人伝の倭国は古代日本のすべてなのか

具体的な倭人や倭国の様子をご紹介する前に、魏志倭人伝に記された記述が古代のすべての日本を記したものなのか、という疑問がまず浮かびます。

現在の様々な研究では、弥生時代の後期から古墳時代にかけての古代の日本には、地域ごとにいくつかの独立した勢力や国があったとする説が有力です。それは北九州や南九州、吉備などの中国地方や出雲などの山陰地方、奈良盆地を中心とした畿内、山陰から北の日本海沿岸や信州、東海地方や関東、東北などなど。魏の国の官吏がこれらの地方や国々をすべて把握し、その知識を持っていたとは思われません。

魏志倭人伝の冒頭には、倭人の国は「もとは100余りの国であったが、いま使者と通訳が通うのは30ヵ国である」と記されています。この30ヵ国が、魏と外交のある邪馬台国を中心とした倭国だと考えられますが、もとあったというそれ以外の70ヵ国、また更にそれ以外にも日本列島に国があったのかは魏志倭人伝では良くわかりません。

これからご紹介する倭人や倭国の記述というのは、あくまで魏が知っていた倭国の様子なのです。

 

入れ墨をしていた倭人

倭人の姿としてまず特徴的なのは、「男子は大人(身分の高い人またはおとな)も小人(身分の低い人または子供)も、みな顔に黥(いれずみ)をしていて身体にも文をしている(身体の表面に絵模様を描いている)」ということです。

そしてこのあとに、紀元前2000年頃の中国の伝説の古代王朝であった「夏(か)」の第6代の王の少康の子が、現在の浙江省と江蘇省にあった「会稽郡(かいけいぐん)」を治めていたとき、人々は髪を切り身体に文をして「蚊竜(こうりゅう、みずち/龍の一種)の害を避けた、という記述を続けています。さらに「倭の水人(海人)は、海に潜って魚や蛤をとらえ、身体に文をして大漁や水禽(すいきん/水鳥)を防ぐまじないとし、のちには黥や文を飾りにしている」と書いています。

このことは、倭人が中国の会稽郡にいた人々や海人族と同じか近いということを、それとなく示しているのでしょうか。会稽郡とは中国南部の長江(揚子江)下流域で、古代の「長江文明」(紀元前14000年頃から1000年頃)があったところ。その後の春秋時代(紀元前770年から403年)には「越(えつ)」の都があり、黄河流域の漢民族とは異なる民族がいたところと考えられています。
つまり魏志倭人伝は、この古代長江文明や越につながる人々と倭人とを、同じように見ていたことを示しているのかも知れません。

 

礼儀正しい倭国の人々

倭人がどのような姿をしていたかというと、男性は「みずら」という古墳時代に埴輪に見られるような髪を左右に束ねた髪型をしていて、こうぞの皮の繊維を糸状にしたものと思われるもので、はちまきをしています。着ている衣は横に広い布で、結びあわせただけで、ほとんど縫うことがないものだと記しています。
女性は髪を垂らしていたり、まげて束ねていたりしていて、1枚の布の中央に穴を開けてそこから頭を出して着る、いわゆる「貫頭衣」を身につけています。

倭人の風俗は、「淫(みだら)ではない」と記されていて、「盗窃(ぬすみ)をせず、諍訟(うったえごと)は少ない。法を犯すと、軽いものはその妻子を没し(て奴碑とし)、重いものはその門戸(家や家柄)を滅ぼし、親族にまで罪を及ぼす」とされます。

また「身分の低い下戸が大人と道で会えば、ためらいながら草叢に入り」ます。「何かを伝えたり事を説くときには、蹲り(うずくまり)跪いて(ひざまずいて)、両手を地について平伏します」そしてこれは、大人に対しての恭敬(うやまう態度)としているのだということです。
このことから倭人はとても礼儀正しい人々で、身分や法に厳しい社会であったのかも知れません。

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