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邪馬台国は大和国?邪馬台国論争「畿内説」を考える

古代文明
 
古代の邪馬台国の読み方は「やまたいこく」ではなく、どうやら「やまとこく」ではないのかというのが古くから考えられてきた説のようです。江戸時代の新井白石は、当時すでに筑紫の国の「山門郡(やまとぐん)」(福岡県柳川市)と「大和(やまと)の国」(奈良県)の2つの「やまと」を唱えていました。
このうちの、奈良盆地を中心とした大和の国こそが邪馬台国があった場所とするのが、「邪馬台国畿内説」です。

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後の大和朝廷につながる畿内こそが倭国の中心地!?

飢饉や漢の衰退により戦乱が続く中国の影響から、2世紀には「倭国の大乱」が起こります。大陸の状況や倭国の混乱から避けるために、大陸から離れた奈良盆地が中心地となったと畿内説では考えます。

倭国の大乱とは局地的なものではなく、西日本から畿内、中部日本にかけての広範な内乱であり、その結果から倭国をまとめあげた邪馬台国は統一政権的なものであり、その勢力が後の大和朝廷へとつながって行くとされるのです。魏志倭人伝は、邪馬台国と後の大和朝廷を同じものであると考えていて、魏の同盟国である邪馬台国こそが大和朝廷による倭国の中心の政権である、とするのが畿内説の背景です。

従って畿内説では、大和朝廷の歴史である古事記・日本書紀の記述も重要視していて、日本書紀では大陸と交渉した女王の神功皇后が卑弥呼であることを示唆している、あるいは天照大神こそが卑弥呼だなどの説もありました。

 

畿内説での邪馬台国への道程

それでは畿内説での邪馬台国への道程は、どのように解釈されているでしょうか。
まず、九州に上陸したあとの「末盧国(まつらこく)」または「伊都国(いとこく)」から邪馬台国への道程の記述は、末盧国や伊都国を起点としたそれぞれの国までの距離(放射説)ではなく、順を追って示したものであるとします。

そこで問題となるのは方角なのですが、そこに12世紀に写し書きをして版本をつくった際の写し間違いがあるとして、特に最後の方の「不弥国(ふみこく)」から「投馬国(つまこく、とまこく)」への「南」、投馬国から邪馬台国への「南」という2つの方角は「東」の間違いであるとします。それにより、不弥国から水行して(船に乗って水の上を行く)20日の投馬国は瀬戸内海のどこかであり、投馬国から水行10日、陸行1ヶ月の邪馬台国は奈良盆地の大和となるのです。ちなみに投馬国は、備後の国(広島県)の鞆(とも)とする説などがあります。

あるいは、古代中国では日本列島は東西に延びているのではなく、南北に延びているという認識があり、それによって南に行くという記述になったという説もあります。

 

箸墓古墳こそが卑弥呼の墓!?考古学からみた畿内説

近年の考古学的発見は、畿内に早くから高度な文化と大きな力を持った勢力があったことを示しています。

魏から贈られた100枚の銅鏡ではないかと考えられるような、大量の「三角縁神獣鏡」の発見や、卑弥呼の墓ではないかとされる初期の前方後円墳が集中しているなど、畿内説を裏付けるような発見が数多くあります。特に、奈良県桜井市にある日本最古の大型の前方後円墳である「箸墓古墳」が造られたのは紀元260年頃と考えられ、魏志倭人伝に記された卑弥呼の没年が247年から248年頃であることから、箸墓古墳こそ卑弥呼の墓であるとする説が根強くあります。ちなみに宮内庁では、この箸墓古墳は「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓としていますが、この姫は蛇の姿となって現れる「大物主神」の妻となったとする「箸墓伝説」の主人公であり、巫女としての存在だったと考えられています。

この箸墓古墳を含め6つの古墳がある「纒向遺跡(まきむくいせき)」は、弥生時代から古墳時代に移行する時期のとても重要な遺跡です。近年には、いくつかの建物跡や柵や砦で囲まれた大規模な都市の一部であるらしいことが明らかになり、ますます邪馬台国ではないのかという説が強まっています。

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