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ナスカ地上絵の謎を解け!考古学者マリア・ライヒェ女史の功績

ジンクス
 
ペルーにあるナスカの地上絵は、1930年代に報告されて以来、世界的に有名な「不思議な事象」のひとつであり、現在では世界遺産にも登録されている、貴重な人類の財産のひとつです。ナスカの地上絵が、現在のように多くの人々に認知されてきた背景には、ひとりの考古学者の大いなる功績がありました。考古学者のマリア・ライヒェ女史、その人です。

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考古学者の助手として研究を始める

マリア・ライヒェ女史は、1903年5月生まれのドイツの考古学者で、数学者でもありました。1998年に病気で亡くなるまで、ナスカの地上絵の研究や保護を推進されています。ドイツの大学を出た後、ペルーには1932年に訪れていて、ドイツ領事の方の家庭教師の職に就いていました。その後第二次世界大戦が勃発しますが、ドイツには帰国せず、そのままペルーに留まります。1940年には、史上初めてナスカの地上絵を学会に発表したとされる、アメリカ人考古学者のポール・コソック氏の助手になり、ナスカの地上絵の研究者としてのキャリアを出発させます。1948年にはポール・コソック氏がペルーを離れますが、彼女はペルーに残り、ナスカの地上絵の研究を続けます。

 

母国を離れ砂漠の謎に没頭する

当時、ナスカの地上絵の全貌をあらわす地図や、図柄の種類などは、明確にとりまとめられてはいませんでした。彼女はペルー空軍の協力を取り付け、ナスカ高原上空から写真を撮影することで、地図の作成や、図柄の特定をおこなっていきました。全貌把握の道中で、『砂漠の謎(The Mystery of the Desert)』という著書にまとめて、ナスカの地上絵の目的についての仮説も発表しています(「ナスカの地上絵は、太陽の暦と、天体観測台として使われていた」、といった説とのことです)。この本で得た収益も、ナスカの地上絵研究や、保存活動に充てた、といいます。20代の頃から母国にも帰らずに、ナスカの地上絵の研究に没頭しているという事実は、世界中のさまざまな人々の興味をひきつけることになり、後年日本人の楠田枝里子氏が、本人にインタビューを重ねて、「彼女の情熱の源泉は何なのか?」という部分にスポットをあてたドキュメンタリーを発表しています(「ナスカ砂の王国」)。

 

ナスカの地上絵の保護活動も

彼女は晩年まで、ナスカの地上絵の保護や、観光地としての整備にも、全財産を投入して没頭していた、といわれています。ペルーからは1993年には栄誉ある賞を授与され(功労十字勲章)、1994年にはペルー市民となっています。そして1995年、ナスカの地上絵が世界遺産に登録されました(登録名「ナスカとフマナ平原の地上絵」)。その後、1998年に病気のため亡くなりますが、その際には、ナスカ近郊で栄誉葬が執り行われた、とのことです。彼女の生前の住居は、今も博物館として、現地に残っています。

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カテゴリ: その他

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