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イースター島のモアイ像にバリエーションが存在する理由

07.モアイ
 
チリのイースター島にあるモアイ像といえば、誰もが「荒涼とした草原の中に、点々と首から上だけが突き出ている、濃い灰色の石でできた、若干面長で無表情なイメージの、巨大な人面石像」を思い浮かべることでしょう。あるいは東京都の渋谷や蒲田にある「モヤイ像」の姿を思い浮かべる方もいるかもしれません。イースター島の本家モアイ像は、一般的なイメージとして知られている他にも、実は何種類ものバリエーションがあり、それぞれ少しずつ特徴が異なっています。

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帽子をかぶるモアイ像

モアイ像は、アフと呼ばれる石の祭壇に立てられていますが、アフはイースター島のいたるところにあり、アフによってモアイ像の作りが少しずつ異なります。アフ・ナウナウにあるモアイ像は、帽子をかぶっているように見えます。一般的なイメージのモアイ像の頭の部分に、赤系の石が積み上げられ、これが帽子のように見える、というものです。

 

顔が短いモアイ像

また、かなり初期のモアイ像の中には、一般的な「面長の顔」とは似ていない、丸顔のものも存在しています。アフ・アトゥレ・フキに1体だけ存在しているモアイ像が該当します。イースター島に人間が住み始めた5世紀頃のモアイ像、といわれています。ちなみにこのモアイ像は、後述する「モアイ像引き倒し抗争」ですべて引き倒されたあとに、1956年になって最初に復元=立て直された、由緒あるモアイ像、とのことです。

 

様々な種類のモアイ像があるのはなぜ?

日本の佐渡島の5分の1程度の面積の、狭いイースター島の中で、モアイ像に何種類ものバリエーションがある理由は、かつての「島内部族間のモアイ像引き倒し抗争」から考察することができます。島に初めて人間が住み始めて以来、1700年頃にヨーロッパ人が初めてイースター島に訪れるまでの間、どんどん人口が増加している期間があり、狭い土地でなおかつ外部との接触も少ない「絶海の孤島」の中で、安定した食糧供給や領土確保を巡って、「モアイ像引き倒し抗争」ともいわれる激しい抗争がありました。墓碑目的とも祭祀目的ともいわれているモアイ像は、部族間で少しずつ違っていたのです。抗争では、相手の部族を倒したことの証として、相手が祀っているモアイ像を引き倒すことが常態化していたようです。このため、19世紀頃にはほぼすべてのモアイ像が引き倒された様態になっていた、とのことです。いずれにせよ、部族間の差異が、そのままモアイ像の差異に反映されていたようです。

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カテゴリ: その他

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