大天狗をやり込めた?! 彦山豊前坊と問答した小早川隆景のお話
戦国時代の武将で、小早川隆景という人がいます。
この武将は安芸国(広島県)を本拠地に、中国地方のほぼすべてを勢力下に置いた毛利元就の三男で、兄の毛利隆元、吉川元春と共に毛利家の隆盛に大きく貢献しました。
天下が豊臣秀吉のものとなった後は秀吉の信任が厚く、五大老のひとりとなっています。実子がいなかったことから秀吉の養子であった羽柴秀俊に家督を譲り、秀俊は小早川秀秋として当主になりますが、この小早川秀秋が関ヶ原の戦いで大きな役割を演じたのは後の話です。
さて、戦国時代が終わり秀吉によって天下が治められた安土桃山時代に、小早川隆景が天狗と問答をして天狗をやりこめたというお話があります。
修験の霊山、豊前彦山に木材を伐り出しに行く小早川隆景
1592年から始まる豊臣秀吉の朝鮮出兵の前と言いますから、1580年代終わりの頃でしょうか。秀吉は小早川隆景に、朝鮮まで海を渡るための船の建造を命じます。
隆景は秀吉の九州征伐(1586年から1587年)の後に九州の筑前国(福岡県西部)を領国としていますから、秀吉からは筑前と隣の豊前国(福岡県東部)の境にある彦山(英彦山)の木を伐り出して造船しろという命令だったのです。彦山には、楠の大木が数多くありました。
この彦山というのは、熊野の大峰山、出羽の羽黒山とともに「日本三大修験山」に数えられる修験者の霊山で、古くから武芸の鍛錬にも力を注ぎ、最盛期には数千人の僧兵を擁していたと言います。敵対していた大友義統に攻められ、その後に秀吉の九州征伐が行われて豊前には細川忠興が入るとその勢力は衰えていましたが、それでも修験道場としての威厳は保たれていたのだと思います。
ともかくも隆景は早速、彦山まで出向き、造船のための木材伐り出しを彦山の座主に告げますが、座主は色々と理由を述べ立ててなかなか首を縦に振りません。隆景が「関白殿下のご命令だ」と言うとようやく座主は納得したので、隆景は彦山の坊にしばらく滞在することになりました。
彦山の大天狗と問答する小早川隆景
彦山に滞在中のある夜のこと、ふいに風が吹き、どこからともなく背丈が2m以上もある山伏が現れ、小早川隆景の前に座って睨んできました。
「これはただの山伏ではなく、彦山に棲む豊前坊という天狗だな」と隆景は気づきます。彦山豊前坊というのは、日本の八天狗に数えられ九州の天狗を統べるという大天狗です。
天狗と隆景はしばらく睨み合っていましたが、やがて天狗が口を開いて、「この彦山の木は、開基以来千年以上の昔からいちども伐られたことはない。これは人々が神仏を敬ってきたから守られたのであって、それが船を造るのに伐り出すとは奇怪な話だ。貴公は神仏に帰依の心が深い名将だと聞いていたが、こんな悪逆無道をするとはどうしたことか」と声を荒げます。
それに対して隆景は、「この山の木を私が自分のために伐り出すということならば、そのようなそしりも受けるだろう。しかしこれは関白殿下の命令なのだ。前例がないと言ってこの命令に背くのであれば、天下の下知に背くことになる。普天のもと、王地にあらずということなし、という。関白殿下は天皇に代って天下を治めているのだから、この天下の下知に背くことはあってはならない」と答えました。
「普天のもと、王地にあらずということなし」とは平家物語にある言葉で、この天下で天皇の土地でないところはない、という意味です。
また隆景は、「私のことを悪逆無道と言うが、そちらこそ自分勝手なことを言っている。役行者(修験道の開祖、役小角)以来、修験者の法には私利私欲を優先して世の法を破れと書いてあるのか。正しい法は私利私欲を禁ずるのだから、山の木に執着してそれに縛られるとはいかなることか」と言いました。
すると天狗は、「普天のもと、王地にあらずということなし、とはもっともなことだ。また貴公に罪がないというのもはっきりした。それではお暇する。さらばだ」と消え去って行きました。
この天狗との問答のお話は、山を護る土地神である大天狗が天下のためという理由で木を伐り出すことを納得するという、まさに戦国時代が終わりを告げ、天下が統一されたことを象徴するようなお話なのかも知れません。