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日本最強の怨霊にして大天狗、崇徳上皇に襲いかかった悲劇とは?


 
日本の歴史上で最強の怨霊とされ、大天狗のなかの大天狗といわれた崇徳上皇は、まさに怨霊や大天狗になってしまうにふさわしい悲劇のなかの天皇、上皇です。

平安時代末期、まさに貴族政治の時代が終焉を迎え、武家中心の世の中を迎えようとしている時代に崇徳上皇の悲劇は起こりました。
本当の父親と密かに信じられていた祖父で後ろ盾の白河法皇が亡くなり、権力が形式上の父である鳥羽法皇(当時は上皇)に移ると、崇徳は無理矢理に天皇の地位を当時わずか2歳の幼い弟の近衛天皇へと譲らされ、自らは崇徳上皇となります。この近衛天皇は弟ですが、母親は崇徳上皇の母である待賢門院璋子(たまこ)ではなく、鳥羽法皇が溺愛した美福門院得子(びふくもんいん なりこ)です。

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天皇から上皇になれば行動が自由になり権力も揮えるはずなのですが、実権は鳥羽法皇が握り、また自分の子供に天皇位を譲ったのではなく、鳥羽法皇の(本当の)子である弟の近衛が天皇になったのですから、崇徳上皇には権力も後ろ盾もまったくなくなってしまったのでした。

 

崇徳上皇の悲劇・保元の乱が始まる

崇徳が上皇になった14年後、病弱だった近衛天皇が亡くなります。
次の天皇には崇徳上皇の息子である重仁親王が有力だったのですが、今度もまた弟の後白河天皇が即位します。この背景には、崇徳上皇に権力を持たせたくない鳥羽法皇や異母の美福門院得子、そして鳥羽法皇の下で権力を握りたい勢力の策謀がありました。

崇徳上皇の不満は日々募って行きますが、やがて1156年(保元元年)7月2日に鳥羽法皇が亡くなります。しかし崇徳上皇が臨終の直前に見舞いに訪れても法皇と対面ができず、葬儀からも追い返されてしまうという事態が起こりました。これは崇徳上皇に謀反の疑いがあるという噂を流した、その頃宮中の権力を握っていた信西(しんぜい)たち側近の策謀だったのです。

そこから事態は一挙に動き、法皇の初七日には崇徳上皇方についた藤原頼長らが軍兵を集めることを禁じる天皇の綸旨(天皇の意を受けた命令)が出されます。
この美福門院や故鳥羽法皇方の先制攻撃に、藤原頼長を中心に崇徳上皇の側近や源為義などの武家勢力が集まりますが、兵力は後白河天皇方と比べわずかでした。崇徳上皇方はそのころ勢力を蓄えていた平清盛が味方するのを期待しますが、清盛は後白河天皇方へとついてしまい、力関係は決定的となります。

鳥羽法皇の初七日から3日後の7月11日に、後白河天皇方は崇徳上皇方を攻めました。上皇方は敗れ崇徳上皇は御所を脱出して行方をくらまし、保元の乱はあっというまに決着がついてしまいました。

 

讃岐へと流される崇徳上皇

逃亡していた崇徳上皇はその後出頭して身柄を拘束され、讃岐の国へと流されることになります。
讃岐の国での生活は完全な軟禁生活でした。暮らしたのは直島という田も畠もない無人島同然の島で、側にいるのは身の回りの世話をするわずかな数の女房だけであり、日々の行動もままならず、仏教に深く帰依し極楽往生を願って写経づくりの生活であったといいます。

もともと崇徳上皇は政治や権力争いからは離れ和歌の世界に没頭した人で、当時の歌壇は崇徳が中心であったなど、文人としての側面が強く優しい人柄であったされています。
讃岐での軟禁生活においても仏教三昧であった崇徳上皇が、それではなぜ怨霊の中の怨霊であり、大天狗のなかの大天狗となったのか、その伝説はもう少し続きます。

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