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崇徳上皇~最も畏れられた大天狗は第75代の天皇だった!

鳥居
 
天狗という妖怪は不思議な存在です。
初めは中国から渡って来た、流星のように空を飛ぶ実体のよくわからない妖しいものでしたが、平安時代あたりからは日本の歴史とともに変化成長し、すっかり日本オリジナルの妖怪となりました。

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400年近くも貴族が太平を謳歌する平安時代が終わり、武家が政治の中心となる鎌倉時代、南北朝時代、室町時代へと歴史が進んで行くと、世の中は動乱の時代へと変化します。そのなかで天狗は、平安時代にはせいぜい僧侶や貴族をたぶらかし京の都で騒ぎを起こすぐらいのものであったものが、歴史の裏側、闇の世界で動乱や災いを後押しし、日本を左右するような存在であるとまで人々に畏れられるようになっていきました。

そんな天狗の中でもきわめて強い力を持ったものは、「大天狗」と呼ばれます。そしてその大天狗のなかでも最も畏れられた大天狗はといえば、崇徳上皇だったのです。

 

太平記の時代に大天狗となった怨霊、崇徳上皇

大天狗のなかの大天狗、崇徳上皇が登場する有名なものは、南北朝の動乱をテーマとした『太平記』という歴史物語です。太平記は鎌倉幕府の滅亡から南北朝の分裂、そして室町幕府の時代へと至る約50年間を描いた、歴史物語で日本最長の作品。

その巻27「大稲妻天狗未来記の事」にある天狗となった怨霊たちが一堂に集まり、その中心には金色の鳶の姿をした崇徳上皇が鎮座されていたというお話は、別の記事でご紹介しました。この時代には、大天狗は世の中に深い怨みを持ち祟りや災いをもたらす強い力を持った怨霊は、大天狗になると考えられていました。それではその怨霊の大天狗の中心にいた崇徳上皇とは、どのような方だったのでしょうか。

 

崇徳上皇とはどんな方だった?

崇徳上皇は平安時代末期に貴族政治の世の中が終わり、政治権力が武家へと移って行く、まさにその真っただ中に生きた人です。
ちなみに「上皇」というのは、簡単に言うと天皇であった方が生きている間にその地位を離れると上皇になりました。上皇が出家すると「法皇」という名称になります。この時代になぜ生きている間に天皇から上皇、法皇にとなったのかというと、天皇は宮中祭祀の頂点の存在として様々に行動の制約があったことから、その制約から離れ権力を持ちながらある程度自由に行動がしたいと、上皇、法皇という立場になったということです。

崇徳天皇は第75代の天皇で(在位1123年から1142年)、そのあとを近衛天皇に譲り上皇になられます。しかし崇徳上皇となっても、権力を自由に揮うことはできませんでした。なぜなら彼の上には鳥羽法皇という存在がいたからです。

鳥羽法皇は崇徳上皇の父親にあたります。しかしここからが少々事情が複雑。
崇徳上皇は実は鳥羽法皇の本当の子ではなく、鳥羽法皇の父である白河法皇、つまり崇徳上皇の祖父の子であるという説があり、当時もそれが真実であると信じられていたようです。

なぜそう信じられていたかというと、崇徳上皇の母は鳥羽法皇の中宮である待賢門院璋子(たいけんもんいん たまこ)ですが、この璋子は幼い頃から親代わりの白河法皇に育てられ、成長してからはどうやら白河法皇と関係があったとか。白河法皇は璋子を自分の息子の鳥羽法皇の中宮(皇后にあたる呼び名)に嫁がせますが、その後に生まれた崇徳上皇も実は白河法皇の子ではないかと信じられていたのです。

もちろん形式上の父である鳥羽法皇も、そのことはよく承知していたはずです。白河法皇が権力を握っていたときにはまだ良かったのですが、法皇が亡くなると権力は鳥羽法皇(当時は上皇)の手に移り、崇徳は天皇の位を自分の子ではなく母の違う弟の近衛天皇に譲らされてしまい、無理矢理上皇にさせられてしまったのでした。
不義の子(と思われていた)を天皇にせざるを得なかった鳥羽法皇も不幸ですが、その本人である崇徳上皇はもっと不幸であり、その悲劇はさらに大きくなって行きます。

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