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日本の鬼伝説の中心地「大江山」と比叡山の鬼の子孫のお話

鬼伝説

 

日本各地には、古代から多くの鬼の伝説が残されています。
瀬戸内・岡山の「桃太郎の鬼退治伝説」や秋田・男鹿半島の「なまはげ」など、物語や伝統行事として現代にも広く知られた鬼たちがたくさんいます。沖縄の民話にも「ウニ(鬼)」の伝説がありますから、日本の歴史の裏側では北から南まで様々な場所で鬼たちが息づいていたことになります。
しかし、そんな日本全国の鬼たちがいた場所でも、まさに「鬼伝説のメッカ」と言えるのは「大江山の鬼伝説」ではないでしょうか。

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独立した影の王国??「丹後の国」の鬼のメッカ

大江山は、京都の北西の方向、現在の京都府丹後半島の付け根に位置する連山で、標高は832メートル。大江山がある丹後地方は、明治以降は京都府の一部になりましたが、昔から「丹後国」として存在しており、古代(6世紀以前)にはヤマトの政権から離れた独立した王国があったという説もあります。

 
位置的にも日本海を挟んで大陸とのつながりがあり、独自の文化があった、ヤマト政権の中心地と日本海地域を結ぶ主要な交通路として重要であった、地形や環境的にも隠れた山里が多くあり影の地域として存在し続けたなど、飛鳥・奈良・京都といった中心地から近いにも関わらず、「影の王国」として特異な場所であったのかも知れません。
そしてその独立した影の王国「丹後」のなかで、鬼伝説のメッカとされたのが大江山なのです。

 

 

3つの鬼の伝説が残る大江山

「大江山の鬼」と言えば有名なのは、京の都を襲ったという「酒呑童子(しゅてんどうじ)」です。
ですが実は、大江山には3つの鬼伝説が遺されています。
ひとつは「陸耳御笠(くがみみのみかさ)」という鬼の伝説。もうひとつが「英胡(えいこ)」「軽足(かるあし)」「土熊(つちぐま)」という鬼の伝説。そして最後が「酒呑童子」の伝説です。

 
このうち「英胡・軽足・土熊」という鬼は、聖徳太子の弟である「麻呂子親王(まろこしんのう)」に征伐された鬼たちで、この鬼退治伝説は別の記事でご紹介しました。
「陸耳御笠」の鬼の伝説はこの麻呂子親王の鬼退治よりも古く、「日子坐王(ひこいますのきみ)の鬼退治」として「丹後国風土記残欠」に記録されているものです。

 

 

日子坐王の土蜘蛛=鬼退治伝説

日子坐王は、崇神天皇という3世紀から4世紀初めに実在したとされる古代の天皇の弟です。
この当時、「陸耳御笠」という名の者を首領とする「土蜘蛛(つちぐも)=鬼」の一族がいて人々を苦しめたので、日子坐王が崇神天皇の勅命を受けて派遣され激しい戦いとなり、最後には陸耳御笠は大江山に逃げ込んだとされるのが日子坐王の鬼退治伝説です。
現在では土蜘蛛とは、古代に天皇に従わなかった土着の豪族や集団のことを呼んだ名称と考えられています。この大江山の陸耳御笠のように鬼とも同一視され恐れられる存在とされていたようで、平安時代以降になると鬼とともに恐ろしい姿をした妖怪のひとつとなり、頭と顔は鬼、胴体は虎、手足はクモのように長い、といった風に考えられるようになりました。
歴史を下るにつれて鬼の方がポピュラーな妖怪となって行きますが、古代においては鬼も土蜘蛛も同じような存在であったのかも知れません。
 

 

比叡山の修行に登場する鬼の子孫

大江山の鬼、酒呑童子の出生伝説のひとつに、伊吹山の神と人間の女性との間にできた子であり、比叡山の稚児であったというお話がありました。この伝説のなかでは、鬼となってしまった酒呑童子は、延暦寺を開創した最澄=伝教大師から比叡山を追い出されてしまうことになっています。
比叡山延暦寺は、言うまでもなく平安時代の仏教の中心的な存在でした。日本の古代から伝えられていた鬼の存在は、実は仏教とも大いに関係があるのです。
仏教の修行地としても代表的なこの比叡山に関わる鬼の子孫のお話をご紹介したいと思います。

 

 

葛川参籠の修行僧を案内する鬼の子孫

天台宗の開祖であり比叡山延暦寺を開創した最澄の弟子である円仁の弟子に、相応和尚という方がいます。相応和尚は9世紀から10世紀の人で、15才のときに比叡山に入って修行生活を送り、今日まで続けられている「百日回峰行」「千日回峰行」は、この相応和尚が始めたとされています。

 
「回峰行」とは比叡山を代表する修行のひとつで、比叡山のなかの霊地を巡礼しながら1日数10キロの行程を歩き通す荒行で、百日の回峰行を果たした行者のうち特に選ばれた者が千日の回峰行を行ずることができます。
この回峰行の行者の参籠修行に「葛川参籠」という葛川明王院で行われる断食修行、滝修行などの修行があり、これは明王院を開創した相応和尚の足跡を偲んで行われるものです。
この葛川参籠の行者を現代にあっても山へと先導するのが、鬼の子孫と言われている人なのです。

 

 

相応和尚と鬼の子孫との伝説

相応和尚は山々を修行で巡るうちに、この葛川の地が霊気に満ちていると感じ、この場所で修行をしたいと思いました。そこで和尚は、この土地神である「思古淵神(しこぶちしん)」という水神にかけあい、修行地を与えられます。
思古淵神は眷属(神の使者、家来)である「浄鬼」と「浄満」のふたりをつかわし、相応和尚はそのふたりの導きで比良山中の三の滝に行き、七日間の断食修行を行いました。そして満願の日、相応和尚は不動明王の存在を感じ、三の滝に飛び込みます。不動明王と感得した姿は桂の古木であり、相応和尚はその古木から千手観音像を刻み安置して葛川明王院としました。
このとき相応和尚を先導した「浄鬼(常喜)」と「浄満(常満)」が水神の家来の鬼と言われていて、その子孫が葛野常喜家と葛野常満家という二家の信徒総代として現在にも続いており、平安時代から現代に至るまで回峰行者の葛川参籠を先導する役割を果たしています。

 

 

山の神の家来としての鬼

相応和尚に山に入り修行を行うことを許した「思古淵神」とは、山から伐り出した材木を川に流して運ぶ「材木流し」など、川の流域での生業を支配する山の神様です。浄鬼と浄満はその眷属=家来の鬼とされていますから、ここでも鬼とは山の神=山を支配する者につながる存在として伝わっています。

 
酒呑童子という鬼が、山の神と人間との間にできた稚児であったという話とも、まったく関係がないとは言えないのではないでしょうか。
また、この相応和尚よりはるか昔、山岳修行者の始まりと言われる「役小角(役の行者)」の弟子=家来も「前鬼」「後鬼」というふたりの鬼であったこととも関わりがあるのかも知れません。

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