人類の史実はどこに…?社会の変化により歴史は再構築される!
人類はいつになったら史実を直視できるようになるのでしょう。私個人の意見として下記に述べさせていただきます。
過去に起きた社会の変化は受け入れざるを得ません。是非や善悪とは別次元の話です。過去のことは変えられないからです。自国の歴史には認めたくないこと、許せないこと、恥ずかしいことなど、多々あるでしょう。目をそむけずに直視し、受け入れることができるでしょうか。国民の多くは直視できないのではないでしょうか。
ではどのようなときに直視できないようなことが起きるのでしょうか。以下では日本列島で起きた社会の変化を概観し、史実が歪曲されるのはどのような場合かを探ります。
(1) 律令国家以前
家族を基本的な構成要素とした部落単位の集団から、より大きな部族単位の集団になり、さらには部族の連合体が生まれ、ついには中央集権的なクニ単位の集団になります。この間には、文書の形式でないにせよ、家族の歴史、集落の歴史、部族の歴史、部族集合の歴史などが作られ、語り継がれたと思います。部族の歴史などでは、当然のことですが美化や誇張がなされます。
(2) 律令国家
中央集権的な国を作る段階になると、部族や部族連合の歴史だけでは不十分で、中央集権国家としての歴史が必要になります。国内の結束のためだけでなく、他国との交際のために必要になるのです。特定の部族の歴史が国家の歴史を編纂するうえで不都合になることもあり得ます。敗者の歴史は滅却や改ざんがなされ、勝者の歴史は誇張されます。
蘇我馬子と聖徳太子の時代には隋や朝鮮半島三国との関係もあり、統一国家の体制を整える必要に迫られました。それまでの豪族の寄り合い的な国のあり方から、大王が任命した中央官僚によって国の経営をするのです。国の歴史も作らねばなりません。太子は馬子と諮り各豪族の歴史を提出させ、それらをまとめた国史を編纂するのです。その活動は乙己の変で中断したものの、飛鳥・奈良朝での古事記・日本書記の編纂へと引き継がれます。これは社会の変化の過程で必然的に起こることです。
(3) 平安時代の摂関政治
平安時代は律令制の反動がおきた時代です。寺社や貴族の土地の私有、すなわち荘園が広がります。律令制が厳しすぎたのでしょうが、それには朝鮮半島の騒乱の影響もあるでしょう。これにより天皇家の収入は減り、有力貴族の経済力は強くなります。経済力の変化が天皇の地位の低下をもたらし、有力貴族が国の政治を握ります。有力貴族の家伝は当然美化もされ正当化もされます。
(4) 武家政治
平氏は交易による経済力が基盤の武士でしたが、鎌倉幕府は、律令制や荘園制の時代に蒔かれた農業を主とする地方有力者と幕府とのご恩と奉公の関係で繋がるネットワークです。天皇側の揺さぶりで足利幕府に代わりますが、強固な政治体制ではないため、戦国の時代になります。この時代を経て完全に武士が注真の社会に移ります。交易による経済力を武力と組み合わせた織田信長の全国統一が始まり増す。しかし急激な変化に根を張る余裕がなく織田も豊臣も倒れてしまい、徳川幕府へと移ります。徳川幕府は商業を前面に押し立てず、農業を基本とする学問の社会を作ります。
(5) 明治時代以降
明治維新により武士の時代に終止符が打たれ、学校教育を受けた者が支配する社会に移ります。先進諸国に伍するため近代産業の育成と軍備の増強を急ぎます。挙国体制を強化するため国史の整備も強力に推進されます。
(6) 敗戦以降
新憲法が制定され、戦争によって問題を解決する方法を断念することがうたわれ、天皇の人間宣言があり、思想信条の自由や信教の自由が保障され、男女平等となり、農地解放で小作制度も無くなり、労働者の権利も保障され、自由な社会になります。しかし、新憲法下で65年余が経過すると様々なひずみが目立ちはじめます。
技術の進歩で、情報が瞬時に移動するだけでなく、人も物も短時間に往来する社会になりつつあります。この傾向はまだまだ進歩を止めません。もちろん後戻りはしないことは確かです。いやおう無しに事物の動きは早まり、他国との関係も緊密にせざるを得ません。しかし理想はなかなか実現しにくいのが現状なのです。