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人類最大の謎!古代人類がアフリカから世界に拡散した経路と時期を探る

1. 人類がアフリカから拡散した3つのルートとは?

アフリカ
言葉によって刺激される感覚器官の種類と数の分布から人種を特定する方法があります。本稿では、この方法を利用して人類がアフリカから拡散した経路と時期を探った結果を紹介します。アフリカから脱出する移動の波は、最終氷河期の始まる頃を含めて少なくとも3回はあったようです。

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2. ルーツ探索の手法

人類のルーツを探索する方法は物理的な手法に限られていました。ことばにより刺激される感覚器官の種類と数には人種特有のパターンがあるようです。これを利用すれば人種のルーツを調べられる可能性があります。

 

2.1 物理的手法

発掘された人骨やその他の遺物の特徴を表す項目を計測して分析します。それらのデータを集めて分類すると幾つかの似た集団に分かれます。世界のどの地域に、どの時期、どのような人間がいたかを把握できます。データ数が増えるほど分析の確からしさも向上します。その意味で、遺跡などで発掘された人骨は貴重です。

 

2.2 感性による手法

(1) 言葉と五感の関係とは

「3重構造の日本人」という本から著者の望月清文氏の貴重な研究を知りました。氏はある言葉から視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、気分などが刺激される程度に民族固有の特徴があることに気づきました。たとえば「固い」という言葉で、触覚だけ感じる民族もいれば、視覚・触覚・気分など多くの感覚が刺激される民族もいるのです。氏によると、日本人には、日本人-1、日本人-2、日本人-3の3タイプがあるそうです。タイプについては後で説明します。

 
(2) この方法の利点

人体の物理的特徴は住む地域により異なってくる場合があります。ところが、ある民族がある時期までに感得した感性は失われず遺伝するようです(いつの日かこれに関与する遺伝子が解明されるかもしれません)。長期間異なる環境で生活したため物理的な特徴には差が生じた民族でも、刺激される感覚器官のデータからルーツは同じと判定できます。今のところアンケートなどでデータを取得するため、存命の人のデータしかとれません。

 

3. サハラ脱出の時期が鍵

生まれ故郷のアフリカ南東部から出て、人類は様々な方向に拡散したと考えます。北に向かうとサハラの地がありました。なおこの場合の移動とは、私たちの旅行のように衣食の心配もなく、ひたすら目的地に向けて移動するのではありません。食料と住環境を確保しながら何世代もかけて移動するのです。
間氷期(13万年から9万年頃)のサハラ地域は湿潤でした。木や草が豊富なため動物も多いため食料には恵まれたでしょう。なかにはこの地に満足せず、サハラ地域を抜けて北に向かう群れもいたでしょう。

 

3.1 早期脱出組とは

最終氷期の始まった頃までにサハラを抜け出してシナイ半島からレヴァント地方(シリア・レバノン・イスラエル)に到達した集団です。彼らは豊かなメソポタミア地域で過ごす間に、ことばと感覚器官との関係を豊かにしました。

集団はユーラシア大陸を東と西に拡散します。旧石器時代の人々です。東に向かった集団はツングース地域にまで達します。この集団の一部は陸続きだった日本列島に渡ります。

西に向かった集団がクロマニオン人です。当時のヨーロッパは氷河に覆われていましたから、地中海沿いを西進し、フランスやスペインで生活します。トナカイは主要な食料でした。しかし氷河の後退と共にトナカイは北に移動し始めました。このトナカイを追って北上を続け、最終的にはスウェーデンの地まで達します。なお、大陸西端部のポルトガルとイギリスに同じ集団が残っていますが、イギリスの場合はクロマニオン人が残ったか、その子孫が後でイギリスに移住したかはわかりません。

 

3.2 中期脱出組とは

9万年前頃から地球は寒冷化が進みます。この集団は砂漠化が始まったサハラ地域を逃れて北東部の地に避難したと思われます。この集団は5.5万年前頃までにアフリカを抜け出し、早期脱出集団と同じ経路でレヴァント地方に達し、さらにはメソポタミア地方に達したようです。彼らは農耕技術をもって西アジア地域で力を蓄え、やがてユーラシア大陸を東と西に拡散していきます。
西に向かった集団の一部はフランス、イタリア、スペインなどのラテン系地域を移動していきます。別の集団は森や泉の多いドイツ地域に進出します。
東に向かった集団はイラン東部の高原からインド亜大陸西北部の平野に下り、やがてインダス文明を支えた民族(ドラヴィダ族)になりました。さらにタミル地方を経て中国江南省に進出します。この集団の一部は海路で日本に稲作技術をもたらします。

 

3.3 晩期脱出組とは

砂漠化が進んだためサハラ地域の南方に押し戻された集団です。サハラの南東部(エチオピアなど)に退避したものと思われます。4万年前頃までの5万年余の期間を厳しい砂漠周辺の地で過ごし、やがてバベルマンデブ海峡を渡り、さらにアラビア半島の海岸線を移動し、ホルムズ海峡を渡ってイランに入り、さらに東に移動してインド亜大陸に達します。さらに東に向かい東南アジアのある地域に至ったようです。ここからは次のように分かれた集団がいました。

 
(1) 中国内陸部移動集団

中国内陸部を北に向かった集団で、この地域で寒冷地適応をした新モンゴロイドです。中国型歯列をもつのが特徴です。その一部はベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移動します。時代は下りますが韓半島を経由して日本列島に渡って来た集団もいます。弥生人と言われる人々です。

 
(2) 中国沿岸部移動集団

中国の沿岸部を北上して東シベリアにまで到達した集団です。寒冷地適応をしてない旧モンゴロイドです。その地で細石器と楔形細石核を特徴とした文化を築きます。一部の集団は樺太経由で北海道に渡りました。

 
(3) 沖縄移動集団

海岸線を移動している初期の段階で仲間から別れて沖縄に渡った集団です。寒冷地適応をしてない旧モンゴロイドです。

 

4. 人類の感性モデル

これ迄はユーラシア大陸も南北アメリカ大陸もオーストラリア大陸も政治的・社会的な理由で大量の人の移動がありました。国境が定まり、征服が悪とされる今後の社会では、地球規模の破壊が起きない限り大きな民族移動は起きないでしょう。ルーツを知るという目的のため、望月氏は移動の少ない人の言葉と感性の関係を知るアンケートデータを集めました。それを分析し統計的な処理をすることにより貴重な知見を得ました。

 
(1) 多様感性型人類(日本人-1型)

言葉から刺激される感覚器官の数が多い感性集団です。この型に属する民族は日本人が主です。他にトナカイを主食としたクロマニオン人の子孫のポルトガル人-1、スウェーデン人-1、イギリス人-1がいます。サハラの早期脱出組が対応します。現在は別の型の人類の拡散で追いやられ、ユーラシア大陸西端と北端、そして東端の日本にだけ子孫が残っているのです。

 
(2) 中庸感性型人類(日本人-2型)

感性言葉から刺激される感覚器官の数が日本人-1型に比べてやや少ない感性集団です。サハラの中期脱出組が対応します。フランス、イタリア、スペイン、ドイツ人のほか、イギリス人-2やポルトガル人-2などが含まれます。モンゴル人、タイ人、タミル人、中国人-2、フィリッピン人などがこの型に属します。

 
(3) 単感性型人類(日本人-3型)

感性言葉から刺激される感覚器官の数が少ない感性集団です。サハラの晩期脱出組が該当します。筆者の想像ですが、多くの感覚器官が刺激されない代わりに刺激される感覚器官に強く作用する可能性があります。この集団には、インドネシア人、エジプト・ヨルダン人、トルコ人、スウェーデン人-2、韓国人、中国人-1、バスク人、メキシコ人、アルゼンチン人などが属します。

 

5. まとめ

感性言葉とそれから刺激される感覚器官の種類と数を測定し統計処理をすると、アフリカを出た人類の辿った移動経路と脱出時期を推定できることを紹介しました。ここで示した拡散モデルはそれ自体が重要な知見ですが、他の方法でこの種の問題を検討する際にも一つの比較対象として役立ちます。

人体を物理的に計測して分類する方法を縦糸とするなら、感性単語によって刺激される感覚器官の種類や数から分類する方法は横糸に相当します。望月氏は後者の方法を用いて人類がアフリカから拡散した経路と時期を推定しました。

望月氏の手法が説得力をもつには、民族の生活体験がことば(論理・理性)と感覚器官の関係情報として記憶され、世代間で受け継がれることが証明されねばなりません。望月氏はそれを利用してアフリカから人類が拡散した経路を推定しました。推論の結果が現実と合致すれば、人類が最も長い期間を過ごした地域の生活体験がことばと感性の関係として世代間で受け継がれる証明になるでしょう。

韓国には単感性型の人が多いようです。日本でこの型の人が多い地方は近畿と中国です。私見ですがこの型の人は感性単語に対応する感性が他の感性型より強く刺激されるのではないかと考えます。もしそうなら、何気なく発した言葉にも話者が思う以上に強く受け止められている可能性があります。

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カテゴリ: その他

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