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秦の軍団は西洋人だった?兵馬俑から推測する始皇帝の軍隊とは

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秦の始皇帝陵の周辺にある兵馬俑坑から出土したという「秦の始皇帝の配下の軍団の像」は、当地の農民の最初の発見以後も発掘が続けられています。現時点で約8,000体以上も発掘されていて、未だ発掘や調査が継続されているといいますから、いかに規模が大きく、かつ歴史的価値が高いものであるかは想像に難くありません。

8,000体以上もある兵士の像はひとつひとつ顔や衣服や塗装が異なり、しかも身長が180センチメートル程度という、現代におけるアジア人の平均身長よりも明らかに大きいものであったといいます。

このことから秦の始皇帝の時代に存在していた「秦の軍団」の特徴が透けて見えてきます。

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西安がシルクロードの起点であるという事実

兵馬俑から出土した兵士の像のほとんどが身長180センチメートル程度であるという事実から想定されることは、「秦の始皇帝の軍団が、実は(平均身長の高い)西洋人で構成されていたのではないか」という仮説です。実際現代のオランダなどでは、平均身長は180センチメートル程度であるとされています。

さらには兵馬俑が見つかった中国は西安の地理的な特徴も「秦の軍団が西洋人と東洋人の混成説」を裏付けるに値するものです。なぜならば西安は今も語り継がれているいわゆる「シルクロード(西洋世界と東洋世界を商業的な貿易でつなぐ交易路)」の起点にあたる場所であるからです。

秦の始皇帝陵のある西安にシルクロードを経由して西洋人が多数訪れていたとしても何ら不思議はありません。ただし、なんのメリットもなしに西洋世界の人々が東洋世界の兵士になることも考えにくいので、そこにはなんらかの取引があったものと思われます。

 

驚くべき金属加工技術

おそらく交易上のメリット、つまり商業的経済的なウィンウィンの関係を東西で築いていた可能性が高いのですが、これに加えて物的証拠として見られる事象として、金属加工技術という側面も見られます。

というのは、秦始皇帝に付随する兵馬俑から出土した兵士の像が携えている銅剣は、現代においてもほぼ錆や劣化などの自然の影響を受けていないことがわかっています。古代中国としてはもっと後年の、漢の時代の剣などは、劣化が進んでぼろぼろの状態で発掘されているにもかかわらず、です。

一説によると、秦の始皇帝の兵馬俑から出土した青銅性の剣には、後年ドイツで発見されたという「化学クロムメッキ技術」で処理されているといいます(この点は今も調査が継続中です)。秦の時代にこの技術が導入されていながら、なぜ漢の時代には継承されていないのか、謎は深まるばかりです。

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カテゴリ: その他

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