「キジムナー」沖縄の木の精霊と河童の奇妙な共通点
沖縄の木の精霊「キジムナー」は、本土のメジャーな妖怪である「河童」との類似性がよく指摘されます。
キジムナーは赤く長い髪を垂らした子供のような姿。一方で河童は、頭に水の入ったお皿を載せ、甲羅を背負った緑色の身体。どちらも小柄であること以外は、見た目にはほとんど似ていないとも思われますが、それではどんな類似性があるのでしょうか。
人間に身近な存在だったキジムナーと河童
別の記事でも触れましたが、キジムナーという名前は現在一般的となった代表的な名称で、本来は地域ごとに異なる数多くの名称があります。河童も同様で、全国には様々な名前が存在していて、年月を経て河童という名称が代表的になりました。
つまり、キジムナーも河童も、名前が共通化する以前に各地でそういった精霊あるいは妖怪が、目撃されたり人間と接触したりする伝承があったというわけです。
精霊や妖怪といった存在は、人間が目撃や接触をしない限りその存在が人間に認識されることはありませんし、伝承に遺ることも当然ありません。ですから、各地に多くの伝承や名称が遺るということは、それだけ人間に身近な存在であったわけです。
神性を表した童形のキジムナーと河童
もうひとつ大きな点は、キジムナーも河童も子供のように小柄で、長い髪やおかっぱの髪であるということです。
これはつまり童子の姿をした童形ということで、古代において童形とは神様が出現した姿やその依り代、眷属など、神様と同じように捉えられる姿であるという意味になります。人間でも成人前の髪を垂らした童形の子供は、まだ人間に成り切らない神様と人間の中間的な存在とされることがありましたから、ずっと童形のままでいるキジムナーや河童は半分は神様的な存在であったとも考えられます。これは座敷童にも共通しています。
特にキジムナーの髪が赤いのは、その神聖性が強く表現されているからだという説もあります。
キジムナーも河童も屁が嫌い?
キジムナーが大嫌いで怖れるもの、それはタコと人間の屁だというのが多くの伝承で語られています。なぜタコと屁が嫌いなのかはひとまず置いておくとして、河童も屁が嫌いという説があります。
「屁の河童」という言葉をご存知だと思いますが、その意味は「取るに足らないこと。簡単なこと」という意味です。その由来は「河童の屁」は水中でするので勢いがないからという説と、「木っ端の火」つまりたいしたことのない火という語源から転訛して、さらに言い方の前後が反転したというのが通説です。
しかし実は、河童は人間の屁が嫌いで、河童を撃退するには屁で充分という意味だとしたら、キジムナーと嫌いなものが共通であることになります。そのほかに、河童が嫌いとされる金属をキジムナーも嫌うという説もあります。
キジムナーも河童も福と禍いをもたらす存在
キジムナーと河童の類似するさらに大きな点としては、どちらも人間にとっての禍福が表裏一体になっているということでしょう。
つまり、キジムナーは親しくなれば魚の豊漁などの富をもたらしてくれますが、裏切るなど関係が壊れると大きな災いがもたらされます。河童の場合は多くは逆で、悪さをしたお詫びに河童の妙薬などの秘伝や宝で富をもたらしてくれます。
本来、古代の神様というのは、このように人間に対して禍福が表裏一体となってもたらす存在で、いつでも福を与える、あるいは常に禍いをもたらすといった一面的な存在ではありませんでした。木の精霊のキジムナーや水神が零落した姿とされる河童は、こういった神様が持つ性格を共通して持っているということなのでしょう。