西洋の手相占いの起源は古代ギリシャ。本格的に広まったのは12世紀ルネサンス期
インドから中東、ギリシャ、ローマを経てヨーロッパに伝わった手相術は、西洋手相術として発展していきました。しかし、決して順風満帆な歴史を辿っていったわけではなく、キリスト教との対立のなかで、何回かの消滅の危機を免れながら今日に至っています。
西洋手相術の本格的な始まりは12世紀のルネサンス期ですが、その起源は古代ギリシャにあると言われています。
西洋手相術の基礎をつくったギリシャ文明
ヨーロッパ文明の起源といえばギリシャの文明です。他の学問や芸術と同様に、手相学もギリシャ文明がその基礎をつくったと言えるでしょう。
ギリシャでは、手相学をカイロマンシー(Chiromancy:キロマンキア)と呼びました。キロは手のことを指していて、その後ヨーロッパでは、手相術はキロソフィーと呼ばれるようになります。
手相学に貢献したギリシャの学者・哲学者として、ピタゴラスやアナクサゴラス、アリストテレスなどの名前があげられ、この頃に三大基本線とされる「知能線」「生命線「感情線」の名称が確立したと言われています。
アリストテレスの「手相術」は偽書!?
ギリシャの手相学では、特にアリストテレスの功績が高く評価されています。彼は「手相術」の著作を著したと言われていますが、実はこの著作は15世紀にドイツで作られた偽書なのだそうです。
中世のヨーロッパでは、手相占いや占星術などの占い全般がキリスト教によって弾圧され、手相術そのものも消滅の危機に陥ってしまいます。そのことから反動として、ギリシャの偉大な哲学者の著作とされるものがねつ造されたのかも知れません。
ただ、アリストテレスをはじめ多くの古代ギリシャの学者・哲学者が手相学に関心を持っていたのは事実のようで、アリストテレスも本物の著作である「動物誌」のなかで、手相について触れています。
ローマ帝国でも弾圧された手相術
古代ギリシャ文明の時代のあと、4世紀にローマ帝国でキリスト教が国教となると、手相術も占星術などと同様にキリスト教の教えにそぐわない異教の迷信的な学問として弾圧の対象となりました。
こうして、ヨーロッパ世界では手相術・手相学が表向きには長い空白の時期を迎えてしまいます。しかし一方では、流浪の民であるジプシー(ロマ)によって手相占いとして庶民レベルで根強く広められて行きました。
また、アラブ世界でも手相術が伝えられていったということです。特に9世紀のアラビアの大哲学者であるアル・キンディはギリシャの哲学や科学に造詣が深く、アリストテレスを研究し、そのなかで手相の有効性を認め医学に応用していたそうです。